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ここしばらくは本を読む時間が取れない日々が続いています。

そんな中で読んでいるのは

メシアンによるラヴェル楽曲分析
オリヴィエ・メシアン+イヴォンヌ・ロリオ・メシアン (著)
野平 一郎 (翻訳) 全音出版社(2007年3月)

電車移動の時に読む程度なので遅々として進みませんが、おもしろいですよ、これ。

たぶん大々的なアナウンスはされていないので、出版に気づいていない人も多いのでは。僕はたまたま全音のホームページを見かけて知りました。なにせ読了していないので内容を語れるわけではないのですが、一部読んだ限りでは、旋法の目で考えていこうという姿勢が強いようです。それ故に引き出した解釈も当然あるわけで、隅々まで慣れ親しんでいるラヴェルに新しい光を当ててくれる思いがします。いずれ時間が落ち着いたら、楽譜と付き合わせながら熟読しなくてはいけないなぁ。

全音は、昨年一気に出たラヴェル ピアノ作品全集3冊に続いて、ラヴェルにまつわるものが続いています。ピアノ作品集の方も、三善 晃/石島 正博両氏による分析や解説が秀逸でした。

ラヴェル ピアノ作品全集 第1巻
ラヴェル ピアノ作品全集 第2巻
ラヴェル ピアノ作品全集 第3巻

ここにも未収録だった「パラード」とか新発見の「メヌエット」とかを楽譜にしてくれる出版社はないかなぁ。メヌエットは自分で楽譜を起こしたけど、パラードは本腰を入れないと耳コピできる分量じゃない。

ラヴェルつながりだと、昨年末に音楽之友社から出たラヴェル―生涯と作品が素晴らしかった。オーレンシュタインの本の存在は知っていたものの、英語を読む覚悟を決められずに、未読になっていた本。日本語訳(井上さつき氏)はありがたいです。

この本は、とにかく資料抱負。ラヴェルのスケッチ段階まで掘り起こしてくれているから、ダフニスとクロエの最終部分(全員の踊り)が、実は初稿では5拍子ではなくて●拍子だった!とか、クープランの墓のメヌエットの原型のメロディはびっくりするほど○○だった!とか、ラヴェルマニアとしては垂涎のネタ満載でした。年末から年始にかけて、ヒマを見つけては一気呵成に読破。これくらい熱中した本は久しぶり。

全日本合唱連盟の機関誌ハーモニー春号の見本が届きました。
この号の58ページ59ページで若手作曲家紹介コーナーの第一段として僕が紹介されています。

購読されている方は是非ご覧ください。購読されていない方は、音大の図書館などでご覧頂くか、ヤマハ銀座店全日本合唱連盟で購入してご覧頂けます。
拙作「おれは歌だ おれはここを歩く」の自己紹介に続いて松下耕先生が作品の分析を寄せて下さっています。
文中に、「ピアノを弾ける人が書いたピアノパートだ」といった趣旨の事を書いて下さっていますが、これは残念ながら事実とは異なります(笑)身近な人は知っているでしょうけど、僕は作曲家としては極端に弾けない部類。
でも、作曲家としてはそういう風に見られた事は素直に嬉しいです。

今号の巻頭エッセイは、なんと「軽部真一が関屋晋を熱く語る!」です。この人選考えた人はスゴイ!

編曲ですが、新刊情報です。

女声合唱ソングブック [生きちゃったイ]四六倍・72頁 1680円 音楽之友社刊。4月9日発売予定。

曲集タイトル「生きちゃったイ」は収録曲のタイトルです。工藤直子さんの作詩。

僕は「千の風になって」の女声2部合唱版を編曲しました。合唱を(どんな女声合唱団でも歌えるように)極めて平易に扱って、音楽的な充実をピアノパートやオプションのオブリガートパートで補った編曲です。もちろん実力ある合唱団でもステージで使える音楽内容です。この曲を充実した編曲で歌いたかった女声合唱団関係者の皆さんには朗報ですよ。

以前書いた「ひだまりの詩」のレコーディングの日。
江戸川橋に近い、キングレコードの関口台スタジオに行ってきました。

こういうスタジオのレコーディングは初体験。僕みたいな活動分野でスタジオに来る日が来るとは予想しなかった。

取り方にもいろいろあるんだろうけど、今日の場合は合唱団のブースと指揮者のブース、ピアノのブースをわけて、マイクを別にセッティングしておいて、あとは目視とヘッドホンの音で合わせる、というやり方。

僕はコントロールルームの方で聴かせて頂きました。マイクを通した音だけを聴いている関係でリアルタイム演奏と全く同じプレイバックが聴こえる事に軽いカルチャーショックを覚えました。
今日の音色は生演奏の基準から行くと硬いものだったけど(そもそも自然に響くだけの広さが無い)、後からミキシングで音像を変えていくんだろうなぁ。仕上がりはまったくの未知数です。

今日行ってみてからわかったんですが、今日のピアニストは、なんと去年熊本の公演の時にお世話になった先生の娘さんでした。「娘は東京でピアニストしとります」という何気ない世間話を覚えていた自分に拍手。世間は狭いです。

で、ご報告です。「ひだまりの詩」の編曲は、まぁ上手くいっていたと思います。今日は20〜30代が中心の合唱団だったけど(そういえば合唱団と顔を合わせない現場、っていうのも珍しい経験だ)、+ウン十年世代の女声合唱団でもそれぞれの魅力が出せるような、素直な編曲になっていたと思います。
CDは春に発売、楽譜は夏に発売予定なのでご記憶下さい。

今日はもう1曲、世間をにぎわしている「千と風になって」の編曲も録音してもらいました。こちらも合唱は素直に歌えて、ピアノが音楽の広がりを支えるような編曲。同時収録なのでお楽しみに。 

ママさんコーラスのための編曲をする事になって、示された3曲の資料に耳を通しておりました(企画者は明らかに「女声合唱」と「ママさんコーラス」を別カテゴリ—として捉えている雰囲気)。

請け負ったからには、原曲とは違う魅力が加味できるように仕上げたいものです。それに、何も若い声ばかりがいいわけはなく、熟年だから出せる魅力だってあるんだという事は充分理解しています。
幸い、頼まれた3曲中2曲は、聴いてすぐに熟年ならではの魅力が出せる方向性が見出せました。

でも、残る1曲が

ル・クプルの「ひだまりの詩」。

さすがに厳しい・・・。

どなたか、こういう若向きの曲(この言い方もおかしいなぁ)の熟年合唱向き編曲に立ち向かって成功した例をご存知でしたら教えて頂けないでしょうか。なんとかしてウルトラCを編み出さなくては。

岸田今日子さんの朗読、舘野泉さんのピアノによる「ぞうのババール」。2001年の録音です。
もう何度も聴いてますが、舘野さんのピアノの雄弁さにも唸らされるけれど、岸田さんの朗読がスゴすぎてスゴすぎて、思わず音楽は要らないから声を聴かせろ!!声をっ!!!と思ってしまうような内容。

声だけの表現、子供でもはっきり理解できるような、絵本を翻訳しただけの日本語(矢川澄子さんによる翻訳も実に巧みで上質な仕事です)なのに、自在に呼吸し変化する声が、振幅の広い奥行きある表現世界を形作ってます。
演奏や、あるいは作曲でも共通するけれど、「間」や「なんの変哲もない音」を怖がらずに語彙として使えるか、縮み上がって先を急いでしまうかで表現世界は根本的に違う次元に至ります。
岸田さんの朗読は、まさにそういう点で世界が違う。

ババールに興味を持った方は、いろんな朗読のCDが出ているけど、ぜひぜひ岸田今日子版をお求め下さい。
池袋のWAVEでは子供向けコーナーにおいてありましたが、こんなものを子供だけに与えておくのは勿体ない!

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で、また28日の宣伝です。

最近あるピアニストと、音楽プロデューサーの方と話していて「音楽家は自己プロデュースの能力のない人が多すぎる」とか「音楽用語を使わないとお客さんと会話できないようじゃあ、新しい聴衆を獲得できない」という話をしました。
全くその通り、とは思うものの、実践の伴っていない僕にとっては「じゃあどういう言葉で語れば?」という疑問が残ります。機会あるごとにそういう視点を持っていきたいとは思いますが、今回たまたま、編曲したそうのババールについて解説文を書く機会を貰ったので、さっそくそういう視点でチャレンジしました。
使ってしまった音楽用語は「プーランク」「オーケストラ」「室内オーケストラ」「ピアノ(楽器)」「メロディ」「編曲」。

「ピアノ(強弱)」「フォルテ」「ソロ」「トゥッティ」「メロディの展開」はどうにか使わずにやりくりできました。

願わくば、易しくするだけではなく、同時に本質を突いた文章に仕立てられるようにしていきたいですね。

たしか永平寺の住職さんの言葉だったと思うんですが

「難しい事を易しく 易しい事を深く 深い事を面白く」。

こういう事を文章でもできたらいいねぇ。難しいけど。
音楽の中で実現するのは、さらにもっと難しい。

というわけで以下が「ぞうのババール」解説です。
興味を持った人は28日に三島までおいで下さい。
http://www.watervision.or.jp/saishin/izu-nyc2007.htm
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フランス人の絵本作家ジャン・ド・ブリュノフの絵本「ぞうのババール」は、1931年に発表されてから今日までずっと世界中で愛され続けています。日本でもたくさん出版されているので、読んだ事のある人も多いのではないでしょうか?
親戚の子供たちが「ババール」に夢中になっているのを見て、この物語に音楽をつける事を考えたフランス人の作曲家フランシス・プーランクは、1945年に朗読とピアノのための作品「ぞうのババール」を完成させました。さらにこの曲を、今日のために新しく編曲したのが、これから演奏される室内オーケストラ版の「ぞうのババール」なのです。
ピアノはふつう一人で弾きますが、オーケストラは、たくさんの音楽家の集まりです。全員でいっせいに大きな音を出す事もあれば、あえて全員が息をひそめて小さな音を出す事だってあります。一人と他のみんなが対話したり、違う楽器の音色を聴かせ合ったりするのも、オーケストラならではの魅力です。物語の場面場面で変化するオーケストラの表情に注目してみるのも、オーケストラを聴く楽しみの一つです。
プーランクはこの曲の中で2つのメロディを大切にしました。1つは物語の最初に出てくる子守歌のメロディ。眠っているババールをママがやさしく揺らしている音楽です。もう1つは、ぞうのメロディ。体の大きなぞうがゆっくりと重い足音で歩くような音楽です。この2つのメロディが物語の進行に合わせて姿を変えながら、何度も出てきます。どの場面で2つのメロディが使われているか気にしてみると、音楽がもっと面白く聴こえてくるかもしれません。
ぞうのババールの音楽を、物語といっしょにお楽しみ下さい。
(堀内貴晃)

一応活動報告のつもりで。

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第5回伊豆ニューイヤーコンサート

2007年1月28日(日) 17時開演
会場:三島市民文化会館大ホール(JR三島駅から徒歩10分)
入場料:自由席/3000円 学生/1500円
演奏:伊豆室内オーケストラ(コンミスが沼田園子さんです)
曲目:モーツァルト セレナータ・ノットゥルナ
プーランク(編曲:堀内貴晃) 音楽物語「ぞうのババール」
チャイコフスキー フィレンツェの想い出
http://www.watervision.or.jp/saishin/izu-nyc2007.htm

真ん中の曲目、プーランクの「ぞうのババール」はもともと朗読とピアノのための曲です。そのピアノ部分を変則的な室内オケに編曲しました(ホルン、打楽器、ハープ、弦楽器5-4-4-3-1編成)。

あまり知られていない曲ですが、とても素敵な、プーランクらしい愛嬌とイタズラ心が随所で発揮されている佳曲です。子供から大人まで楽しめる曲ですから、是非とも三島まで新幹線を飛ばしてください。

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以下はメモです。

編曲中、プーランクの語法で2つの新発見。
1)短調は、多くの日本人が思うような「悲しい和音」としての使用とイコールでつながらない。一つの音色としての使用が頻繁に出てくる。これは翻って、他のプーランクの曲でも言えそう。プーランク自身の演奏との関連も考えていけると思う。
2)フレーズの継ぎ足しの語法。曲によってはくどいくらいにフレーズ語尾のみを返送して幾度となく付け足していく。こういう部分は無反応に演奏したり、過剰に演出してもダレるだけになりそう。どこが付け足しの終着点かを見通して、ゴールまでのペース配分を計算するのが良さそう。意外と目立たないものなので作曲時も取り入れてみても良いかも。僕は、多分今まで1度も使っていない語り口。

台本(絵本)原作のジャン・ド・ブリュノフは若くして(38歳)で亡くなった。プーランクが作曲を開始したのはブリュノフの死後。ブリュノフはそもそも自分の子供2人のために絵本を作った。その子供は、片方はぞうのババールの2代目作家として親の跡を継ぎ(ロラン)、もう一人はピアニストとして活躍中(ティエリ)。ピアニストの方は日本ではブリュンホフと表記されているらしい。brunhoffだから、ブリュンホフの方が近いような気もするけど、ババールが有名になりすぎている事、絵本の想定読者層(たぶん幼児)にブリュンホフの発音は難しいと判断されている事が関係あるんではないかと推察。
ちなみにティエリ・ド・ブリュンホフによるババール録音は現在のところ存在しないみたいです。

フランセによるオーケストラ編曲版も存在していますが、これがよく見るとわりといい加減と言うか、フランセなりの配慮と言うか。
原曲の和音や旋律をちょこちょこ弄って変更しています。かなり目立つ和音の部分でもかなり目立つ変更を施していたりするので、僕個人の所感としてはやりすぎなんじゃないかと思います。プーランクはこの編曲に許可は出したようですが、万々歳だったのか、渋々承知という感じだったのか知りたいところ。

昨日、ようやく年末に出ていた舘野泉/岸田今日子版のCDを入手しました。たまたま再発売されたのが岸田今日子追悼版みたいになってしまったのは残念至極・・・。
中身が悪かろう筈はないので、これから聴いてみます。

音楽史

元旦の夜は、ヒルデガルド・フォン・ビンゲンなぞを聴いて厳かな気分になってみたりしました。演奏も非常に高水準。ちゃんと分析してるわけじゃないけど、感覚的には迂闊にグレゴリアンを聴いているよりもずっと僕の好み。もともと音楽史に興味がないわけはないし、ルネサンスものなんかにはあまり距離を感じずに親しんでいたけど、1年くらい前からか、中世の音楽も含めて古楽全般への興味が自然に増してきています。とは言え、専門的な知識もなく下手の横好きで首を突っ込んでいるだけですが、今年はもうちょっと網羅的に聴いていきたいなぁ。なんて思っていたところに、ずっと以前に買ったままだった青土社の現代思想臨時増刊「もう一つの音楽史」(1990年12月)が目に入った。ホントに偶然。#今検索してみたら日本の古本屋さんで古本を発見。たしか古本市でたまたま見つけて、近藤譲さんが対談しているというだけで買ってみたんだけど、当時は古楽方面の知識があまりに疎く、読んでみてもワケのわからない話だらけだった。でも、今読み直してみるとだいぶ面白いじゃないですか。青土社の関連のものっていつも編集眼に感心するけど、この本にしてもそう。1990年と言えば、日本ではまだ古楽の認識も浅くて、オーセンティックな演奏なんてまだまだ珍奇に扱われてた時代なんじゃないのかなぁ?そういう時代に、この分野の事をちゃんと先見性を持って語れる人材を見つけ出して、適切なテーマを与えて仕事させてるわけだし、これが音楽だけに及ばず、テーマごとに毎回膨大な勉強をしつつ本作りしてるんだろうし、明確な売れ線の本なんて全然出してなさそうだし、つまりは社員数だってそんなに多くないんだろうにこういうハイクオリティ本を多量に出している青土社に対しては怪物集団みたいなイメージがあります。現にこの「もう一つの音楽史」だって上尾信也さんとか井上さつきさんとか、その後名前が出て行く人材を登場させてるんだから、やっぱり嗅覚はすごいようだ。そんなわけで再読か初読か記憶の曖昧なものを読み返してますが、ホグウッドのインタビューとか、先に書いた近藤譲+庄野進+大崎滋生対談とか、皆川達夫インタビュー、金澤正剛ほかの対談とか、渡邉順生エッセイとか、18世紀ヨーロッパ各地のオーケストラ編成表とか、1990年時点での膨大な古楽CD紹介とか(いま入手できるものがどれくらい残っているんだろう・・・。)、他では読めなそうな貴重な情報がたくさん載っています。今は古楽研究の状況自体は変わっているだろうけど、この世界に態度、あるいは信念のようなものが随所に渦巻いている本です。装丁は菊地信義さん。圧倒的な分量なので、ちまちま読み進めます。

たまたま見かけて、安さに釣られて買ってしまった10枚組のクラシックDVD。DVD1枚が200円の時代になりましたよ。奥さん。クレジットを見ても、ちょっと怪しげな名前ばかりですが、コチシュのモーツァルトとベートーヴェンが見れれば最悪でもモトは取れるかと思って手を出してみました。時間がないから全部の視聴は出来ていないけど、コチシュはとても素晴らしい内容だった。これはポイントが殆どぶれない、正当派の映像。それから伏兵的に良かったのがコンソート・オブ・ミュージックによるラッソと、ヒリヤード・アンサンブルによるオケゲム。どちらも変な演出が入っていて映像としてはビミョ〜な空気が漂うけど、演奏は高水準。コンソート・オブ・ミュージックってエマ・カ—クビーが所属していたんだね。メンバーまで気にしていなかったので、演奏後のクレジットで初めてわかりました。顔を見ても今の顔と違うという事は、いつの録画なんだろう(笑)エマ・カークビーといえば、古楽方面での活動が有名ですが、ホグウッドと録音しているストラヴィンスキーのCDがあって、こちらもなかなか素敵。ストラヴィンスキーと言っても新古典の曲だから、あまり志向が異なるわけじゃないけどね。

全音から出ているシューベルト歌曲集を買ってみたら編集:田中伸枝となっていた。知らない名前だったので気にも留めなかったけど、この田中伸枝さんによる解説が予想以上に素晴らしかった。たいていこの種の解説って、今読むと鼻白むような時代がかった内容だったりするので、新鮮な驚き。初版は1964年の本なので、もう40年も前に活躍した人ですね。曰く「リートでは詩が音楽と共に大切な役目を持っていますが演奏となるとまず音楽の表現に専念するように心がけましょう。といって詩を軽んずる意味ではなくリートに於いての詩情は音楽を通じて現れてくるからです。 詩を解し、言葉の一々を知る事は大切な事です。これはリートの場合、音楽をより深く追求する手段として考える方が当然でしょう。自らの詩の解釈をもって名曲を左右しない、つまりシューベルトの音楽を損じないようにしたいものです。ところが詩やドイツ語の一々を知るに従って詩の気分や言葉に捉われてしまって肝心な音楽の表現に妥当を欠いている場合がよくあるものです。例を『魔王』にとって見ましょう。・・・」という感じ。このあとには魔王を例にとって、具体的な対処法をわかりやすく解説しています。「詩の方に捉われてその方から音楽の表現を強めようとするつもりであっても、結局シューベルトの音楽を音楽以外の要素でもって補うという冒険をする事になりますから余程注意せねばならない事です」ともある。まさに我が意を得たり!という感じ。声楽ジャンルに根強い、過剰なtext幻想とのギャップには常に違和感を感じていましたが、その違和感を明快に文章化してくれています。40年前って、まだまだドイツ中心の音楽史観で、クラシックが「教養」だった時代だろうけど、それでもこういう見識に辿り着けた人はやっぱりいたんだね。でも、田中伸枝さんの事を調べてみても曲集の解説は全音のシューベルト2冊しか担当していないみたい。出版当初から評判が良かったらもっと他の曲集にも書いていそうなんだけどなぁ。時代と合わなかったんだろうか。因みに、現在も活躍中のヴァイオリニスト田中千香士さんは田中伸枝さんの息子さんでした。そして、千香士さんの姉が、伝説ともなっているピアニストの田中希代子だったんですね。すごい家族です。

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