クープランの墓

作曲している合間にちょっと一息、という時には、棚から適当に楽譜を引っ張りだして、開いたページの曲を弾いてみたりしている。今日は久々に思い立ってラヴェルのクープランの墓(ピアノ)を出してきた。昼間にヴィラ・ロボスのピアノパートを聴いて、クープランの墓のプレリュードのペダルのことを思い出したからだ。クープランの墓をちゃんと見直したのは2年ぶりくらいだろうか?前は覚えるくらいまで弾いていたけど、今見るととても新鮮に見える。と同時に、前は何にも聴かずに弾いていたんだなぁとも思う。歪められた和音で全部のピッチを聴き取ってはいなかったようで、あれ、こんな音前弾いていたっけ、と思うところもところどころあった。指は無意識にその音に行くからたしかにそう弾いていたはずなんだけどな。内声が耳に新しく聴こえてしまう。それから持続。前はいかに縦の和音の中でばかり音楽を聴いていたのか。こんな横のつながりが隠されていたのかぁと驚いてしまった。そういえばオーケストラ版ではそういうポイントを拾っていたなぁ。そういうラヴェルのワザの部分には驚きを新たにしたが、不思議なことに純粋に音楽的な感動を感じなかった。前はあんなにラヴェルが好きだったのにな。今はドビュッシーの音楽の方が肌に合っているようのかもしれない。


  1. しゃー’s avatar

    ラヴェルは古いもの(形式)を新しく読み直したのに対して、ドビュッシーは新しいもの(言語)を作り出しちゃった、というところかねえ。そのドビュッシーがぶったまげたストラヴィンスキーは両方混ざってるか?そうでなければあのジェズアルド作品の補作(というか作曲というか)の完成度の高さはなかっただろうねえ。

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  2. ほりうち’s avatar

    ラヴェルはあくまで伝統直系の価値観だろうけど、ストラヴィンスキーは間をすっとばして吸収してるって感じだね。「周辺」の強みみたいなものもあるのかな。細かい事に拘泥しないで冒険心で切り込んでいくしかない、みたいな。(タンドゥンもその意味で同系列におけるかもしれない)ストラヴィンスキーのピアノ作品集(ソロ+コンチェルト)の2枚組のCDを最近買ったけど、オケが絡んでいる方が断然面白いです。演奏の関係もあるかもしれない。ピアノはベロフが担当。

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