7月最初に日本楽譜出版社からバッハのブランデンブルク協奏曲第3番と第5番のスコアが発売されます。
―というだけなら新鮮味のあるニュースではないのですが、この新刊が「自筆譜のファクシミリ版」で、国内では初出版なので、ちょっと普通の新刊案内とは違います。そして出版の裏では僕もお手伝いしたので、そのお話を書こうと思います。
ドイツ留学から帰国して間もない昨年の12月、日本楽譜出版社から出版計画の相談を受けました。職業柄、楽譜だけは山ほど見比べているので、これまでにも折にふれて「この曲を出すなら底本にするのはどの版が良いですよ」とか「この曲のA社版はこういう欠陥があるので、底本にするときには別のB版の情報も補って楽譜を作った方が良心的です」などと出版前の相談にのる事は度々ありました。
12月のこの時には何曲かの相談を受けたのですが(他の曲もいずれ世に出ることでしょう)、このバッハのブランデンブルク協奏曲第3番と第5番もリストに入っていました。「底本とするのはどの版が良いか?」との相談。
僕の答えは「校訂や編集方針があるなら別だけど、特別な方針がないなら、いま新たな原稿を浄書して作って1冊選択肢が増えたって、既存版に比べて魅力があるというわけではないでしょうし、浄書するにしてもバッハの時代の書き方をどの方針で再現していくか、ちゃんと検討したほうが良いですよ」「一番確実な楽譜を出すなら、自筆譜でしょうね。浄書代もかかりませんし安いくらいかもしれませんよ」というもの。
普通ならこんな話をしても「自筆譜なんか出せるわけない」なんて事でそれらしくお茶を濁して、誰か専門家の監修のもとに新しく編集した楽譜を作ろうか、となってしまうのでしょうが、日本楽譜出版社の社長は、こういう場合、時に腹のすわった決断をなさる方です。
「じゃあちょっと、自筆譜の事を調べてくれる?」と。
自宅で改めて調べてみたら、この曲はちゃんと自筆譜が残っている事がわかりました。ベルリンの国立図書館 Staatsbibliothek zu Berlin – Preußischer Kulturbesitzにあるようです。そして、既にPeters社からファクシミリ版が出版されていたこともわかりました。
出版権が独占契約だったら日本では出せないなぁとは思いましたが、もし独占契約じゃなければ何も問題はないはず。そこで早速この図書館の音楽部門の担当の方に連絡をして(ドイツ語です)、自筆譜の権利について問い合せてみました。
図書館の答えは「たしかに自筆譜は図書館にあるのですが、残念ながらPeters社と出版の契約を結んでしまっているので、他の出版のために自筆譜を使わせることはできないのです」と。
意気消沈。
でも諦めるにはまだ早い、とダメもとついででPeters社の方にも日本での出版が可能かどうか問い合わせをしてみました(やはりドイツ語)。
担当の方から「それは一体どういう事ですか?」という返事が来たのを皮切りに、メールで日本楽譜出版社の真意を丁寧に伝え、先方の話も聞き、と間に入ってやりとりをすること十数回。
最終的には熱意が伝わって、日本国内での出版許可をPeters社から貰うことができました。
許可が貰えたら貰えたで、今度は日本楽譜出版社側も準備に忙しくなります。解説文を依頼し、ファクシミリならではの細かい差異がちゃんと伝わる印刷が仕上がるよう、印刷屋さんと慎重に試行錯誤を重ね、と普段以上の体制で出版準備が進んだようです。
そうやって半年の準備作業を重ねた楽譜が、いよいよ7月はじめに登場します。
「お手頃価格」の印象が強い日本楽譜出版社ですが、この2曲は初めてハードカバー装丁になります(僕個人はいつものお手頃なテイストで自筆譜が手に入るのが良いなぁとも思いますが、存在に重みのあるハードカバーも悪くないですね)。
この2曲の自筆譜を改めて見てみると、清書の美しさに見惚れてしまいます。既存の浄書された楽譜からは決してわからないフレーズの書き直しや、インクの濃淡をずっと追っていくのも音楽的な至福。バッハが筆を走らせたスピードが追体験できるかのような錯覚にとらわれます。
値段以上の価値がある楽譜ですから、興味の湧いた方は是非日本楽譜出版社の「ブランデンブルク協奏曲」を手に、「この楽譜の裏で堀内が暗躍していたんだなぁ」と思ってください(笑)。
契約の関係で第3番・第5番のどちらも500部限定出版ですから、お買い求めの方はお早めに。
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