Articles by takaaki

You are currently browsing takaaki’s articles.

今日はずっと自宅で(他人の)楽譜作りの作業だったので、フォーレの歌曲をiPodに投入しながらざ〜っと流しておりました。聴いていたのはbrilliantから出ている歌曲全集。アーメリンクもスゼーもどちらも清澄な歌い方でとても心地いい。録音は70年だから、一般的にはもっとロマンティックな演奏が蔓延していたんじゃないかと思うけど、余計な飾り付けのない、素直な楽譜の読みです(多分。流して聴いているだけだから正確な事は言えない)。ピアノのボールドウィンさんも、絶妙なタイミングや音色を随所で聴かせてくれます。今日聴いていて特に耳に残ったのは2曲。フォーレのOp1-1であるLe papillon et la fleur(蝶々と花、かな?)は、全く旋法色がない普通の調性で書かれていて、ある意味フォーレらしからぬ曲だけど、サロン風の上品さが光る。3コーラス繰り返すんだけど、ちょっとした音程が繰り返しによって異なるところなんかが地味に巧い。op.1って普通は気合い入りまくりの力作になるものだと思うけど、これだけ肩の力が抜けて、なおかつ洒脱な曲が書けるのもスゴい事です。もう1曲は、Op.58-1のMandoline(マンドリン)は、タイトルどおりにマンドリン風アルペジオのスタッカートなピアノの音型がチャーミング。このあたりになると、こっそりと旋法的な動きを織り交ぜ始めますね。和音に付加音を忍び込ませる手法が巧くてニクいです。特に出だし、1拍目ウラの右手の9thの音なんて、いざ書こうと思ってもなかなか書けないだろうなぁ。スタッカートの音型と対比的に描かれるレガートも、耳に新鮮さを運んでくれる。でもあくまでさりげない。こういう曲を1アイディアで終わらせずに、サラッと創意工夫を盛り込めるあたりは、さすがフランス!今日は一緒にブラームスやシューベルトの歌曲も見ていたけど、ドイツ人の巧さって、そういう部分とは少し違うところにあるような気がするなぁ。フォーレ歌曲の楽譜は全音から国内版の全集が出ていますが(校訂と解説が萩原英彦先生!)、細かい事にこだわらない向きにはdoverの1冊が手頃でしょう。僕もこだわらない向きなので(笑)dover片手に気に入ったページを順に弾いたりしています。

中村音楽工房なる業者さんのサイトを発見。楽譜作成ソフトの普及のお陰で、今や浄書屋さんを名乗るホームページは山ほどあるけれど(そしてその殆どは浄書の基本的なルールさえ守れていない稚拙な楽譜をサンプルにしている、プロとは思えないクオリティだけど)、この工房は浄書ではなくてライブラリアン業務を請け負っているところらしい(ライブラリアン=劇場やオーケストラで楽譜の管理把握を担当する仕事です)。ネットショップを覗いてみたら楽譜用の製本用品を扱っていたので早速注文してみた。ちょうど手許になくなっていた製本テープと、それから興味を惹く「楽譜用紙」のA4版。ちょうど僕の注文で在庫が切れたらしいのでこうやって安心して紹介してるんですけどね(笑)。届いたらレビューしてみます。単価は高めなものの、コストパフォーマンスはかなり良さそうなので、気に入れば今後のコストダウンにもなるでしょう。楽譜って一般の本などに比べると特殊な使い方をするので、一般の文房具だと100%満足するのが難しいんですよね。手間をかけて足りない満足度を補う事になったり。なので「楽譜専用」をウリにしている商品は気になるのです。製本用品になってしまうとヤマハにも置いてないしね。今日は面白い業者さんを発見できました。・・・で終われば短い記事ですが、この業者さんのブログを読んでいたら、もっと興味深い商品を発見!楽譜は進化している!!というわけで、楽譜と日常的に付き合っている人にとっては福音となりそうな商品を3つ紹介します。【1.楽譜専用制本機】面倒だった楽譜製本の手間とももうおさらば!な商品。一般の製本機は一応僕も持っているんだけど、ページの開きっぱなしができないんですよね。その問題をクリアしてくれている商品らしい。【2.電子楽譜表示モニター】6年前くらいかな?Boosey&Hawksの販売担当者が来日して楽譜出版にまつわる話をする、という会に出た事があります。その時に「楽譜の販売・閲覧の形態はデジタル技術によって変わると思うか?」という質問をしてみたら1. 販売はpdfのダウンロード販売は将来普及するだろう。ただし、製本された本のかたちをしている事が、楽譜の場合には特に重要になるので、従来の製本された楽譜にとってかわるところまではいかないだろう2.モニターに楽譜を表示して、スクローリングしたりページを切り替えるなどの方法を考えれば、紙以外の楽譜を見て演奏する事も考えられるかもしれない。ただし、デジタルによるトラブルを0%にする事は難しいし、演奏者は楽譜を順に追って見ているだけではないと思うので、瞬時に後戻りできない表示方法では問題がある。それから目の疲労の問題もあるし、何より書き込みが出来ないデメリットを克服する必要があるので実用化は当分先だろう。というような事を話していたような気がします(英語だったのでどこまで真意を掴めたか不明)。それがこうして一応商品化されたんだねぇ、と6年越しの感慨が。少し前に、日本のテレビニュースでも同じような商品の事を報道していました。まだまだ値段が高いけど、サロンコンサートとか、デパートのイヴェントなんかではモニタ自体の物珍しさをアピールポイントとして使っていく事もできそうな気がします。【3.電動譜めくり機 フメクール】これは演奏者の皆さんに特にお勧めしたい!普段から譜めくりに悩むピアニストの皆さん、それから「マタイ」みたいな大曲での譜持ちは重くて大変、とお困りの合唱団員の皆さんには特に朗報かと。何かの理由で、スコアを見ながらアンサンブルしなくてはいけなくなった室内楽演奏者にとっても福音!あらかじめ、全ての右ページにクリップを貼付けなくてはいけないのが難点です。でも、あまりページの多くない曲なら実用的な気も。軽量らしいし(5万円するけど)、誰か買ったら実物見せてくれませんか?実際に舞台上で使っているところも是非見たいので、フメクール使用コンサート情報も求む。

音楽之友社から新刊で出たベルリオーズの管弦楽法を早速購入。現代のオーケストラで使われる楽器がまさに生まれつつ/生まれ変わりつつあった時代の視点がふんだんに盛り込まれた管弦楽法。例えば管楽器の運指表などが含まれていないし、現在とは事情が異なる楽器事情が散見されるが、それでもそれぞれの楽器本来の姿と、それらが集合したオーケストラという有機的な存在がどのように発展成立してきたかが、時代の空気感を通して見えてくる。ベルリオーズの原文に対するR.シュトラウスの注釈も毒舌や魅力に富んでいて面白い。作曲を勉強する人には、情報が古いと言う意味で1冊目の管弦楽法としてはお薦めできないものの、2冊目以降に実際の経験と照らし合わせていく本としては強く推薦したい。演奏家や一般の音楽愛好家にとっても読み物として充分に面白い1冊だと思う。訳本ながら日本語に全く違和感がないのは素晴らしい。まだ若いこの訳者を起用してこの重要書を出版した音楽之友社の慧眼には敬服。Z社さんと違って、最近「良い仕事」の数が増えていると思います。願わくば傷みやすいソフトな紙質ではなくハードカバーの安定的な造本にして欲しかった。日常的に持ち歩けるようなサイズや重さの本ではないし、造本のために定価が1000円2000円上がったからと言って大きく印象が変わる価格帯ではないのだから(12600円)。どうしてもすぐに読みたかったので根性入れて移動中に読み継いだら、読了後には結構傷んでしまった。

金沢に帰省した折りにたまたま寄った書店で見つけたノンデザイナーズ・デザインブック Second Editionが予想以上に面白く、知見を開かせてくれた。

もちろんデザイン本なので、デザインに関して「理論・法則が道しるべになる」事を再確認させてくれます。この点だけでも僕は目から鱗。これからは楽譜の表紙作りや様々な文書作りをスタイリッシュにできるようになるぞ。

そして、それに留まらないで音楽にも通じる点がいろいろありました。無意識に処理していたあれやこれは、こういう視点で整理し直せばスッキリ理解できるんだね〜、と。下手な音楽書よりもよほど有益な本。

姉妹書にノンデザイナーズ・タイプブックというのもあるけど、これは文字好きでなければ特に不要な本かな。文字好きの僕は楽しめたけど。

系図

久しぶりに武満徹のスコアを買ってきました。

語りとオーケストラのための「系図」ー若い人たちのための音楽詩ーです。

語りに使われている詩は谷川俊太郎さんの「はだか」からの6篇。今年の2月になってひっそりと出版されていたのを最近見つけたんです。行きつけの池袋ヤマハは新刊の入荷が異様に遅いので(発売後1ヶ月以上経ってから入荷する事が多い)、たまたま銀座のヤマハに行った時に発見。音楽之友社や全音の新刊はホームページでチェックしてるけど日本ショットのページは滅多に見ないからなぁ。

この「系図」、かつて大好きだったんです。今も好きだけど。10年前、ちょうど大学受験をしている時に武満さんが亡くなって、作曲少年のご多分に漏れず武満教信者だった僕はショックを受けたわけですが、少し経ってからテレビで流れた特集番組の中でこの「系図」の存在を知るわけです。最初に聴いた時から強く惹き付けられました。更に少し経ってから発売された追悼盤CDにはじめて録音が収められたのですぐに購入して、それから数ヶ月間は、25分くらいかかるこの曲を毎日2回くらいは聴いていました。

60年代の武満さんの作品も当然知っていましたが、特に青少年用に書かれた曲とは言え、あの60年代の高密度な厳しい作風の武満さんが晩年にこんなにわかりやすくて豊穣な世界に行き着いた事にとても大切な意味があるように思えたので、部分的に耳コピしたり、一音も漏らすまいと覚えるくらいに聴き込んだものです。

初期の作品でサラベールから出版されている何曲かを除いて、武満さんの作品は全て日本ショットから出版される契約になっていた事は知っていたし、これだけわかりやすい武満作品なら売り上げも期待出来るはず。だからきっと早々にスコアが出版されるものと思いました。が、期待に反して「系図」のスコアは全然出版されない。しびれをきらして日本ショットに電話をかけて「出版の予定はないんですか?」と質問した事まであります。それも1年おきに3回くらいは(笑)。そのたびにショットの担当の人は「いま出版に向けて準備を進めていますので、もうしばらくお待ち下さい」と言っていました。

で、その「もうしばらく」が10年かかってしまったわけですね。今や僕の「系図」への想いも相当薄れてしまいました。思えば遠くへ来たもんだ。でも、楽譜が出たらやっぱり買いたい。楽譜を読んで曲の秘密を探ってみたいので、今日の購入となりました。で、家に帰ってまずやりたかったのはCDを流しながら楽譜を順にめくる事。

ところが!系図が入っているあのCDが見当たりません。まさか捨てるはずもないし、探せる限り探しても見つからない。結局今日のところはCDを諦めて楽譜をつぶさに読みふけっていました。

聴き込んだだけあって、意外に音色の実感が耳の奥に残っていました。やっぱり美しい曲だった。今日の収穫は2つ。

1つはオーケストレーションの素晴らしさの理由がわかった事。これが隠し味だったんだね、という所をいっぱい確認。

もう1つは、CDの演奏で「ゆれ」だと受け止めていたテンポの変化が、正確な記譜でコントロールされていた事です。作曲の人も見ているので細かい事を書きますが、小節1つで取るような早い4分の3拍子を設定して、その中で4分音符3つの小節、付点4分音符2つの小節、という具合にタイムを操作して結果的に頻繁にpoco accel.とpoco rit.を繰り返しているような効果を作り出しています。てっきり8分音符だと思っていた音が4分音符で書かれていたのは大きな発見でした。

8分音符で同様の操作をしようとしても、見た目の変化が複雑になりすぎるので、4分音符で書いた意味合いは大きいです。そういえばストラヴィンスキーが同じような事を語っていました。どの演奏を聴いても同じようにアゴーギクがついていた理由がやっとわかりました。ただ先例追従していたわけではないようです。

(社)全日本合唱連盟と朝日新聞が主催している第58回全日本合唱コンクールの全国大会がこの土日に新潟で行われました。まず各県での大会が行われ、その上位団体による支部大会が行われ、支部大会の上位団体によって全国大会が開催される、というそういうシステムです。中学・高校・大学・職場・一般という外的条件による部門区別があり、更に人数によってA(32人未満)とB(33人以上)という二つの部門にもわかれるシステムです。そのうちの一般・Aの部門で東京支部代表のCANTUS ANIMAE(カントゥス・アニメ)という混声合唱団が、僕の作曲した「みみをすます」から「Prologue,I,II」を演奏してくれて、文部科学大臣賞(1位)とカワイ奨励賞(日本語の曲を演奏した中で最も優秀な団体に与えられる賞)を受賞したのです。「みみをすます」の楽譜は、一般の店頭販売に先駆けてこのコンクールの会場で先行販売されたので、(現実的な現象として)合唱団の受賞が会場での販売数に直結します。「優勝団体の選曲」はその他の人たちに興味を持たせる要素がありますから。間接的には、今回の事がきっかけとなって(コンクールの枠組みを越えたところで)曲が広く演奏されるきっかけと成り得ます。「存在を知られていない曲」は「存在していない曲」と同義なので。そんなわけで、CANTUS ANIMAEのみなさん、ありがとうございました。そしてこのコンクールの受賞には更なるオマケもついてきました。3月に福島県郡山市が開催する「水と緑の全国音楽祭」に合唱団が招待されたのです。(なんと合唱団全員アゴアシ付きだそうな。太っ腹!)その音楽祭では「みみをすます」の全曲を演奏することになりました。が、指揮者は既に別の仕事の予定が入っていてバッティング。その為に、まわりまわって僕が指揮をする事になりました。3月は指揮者として郡山デビューしてきます。自作自演です。振り間違えないように練習あるのみ。

「みみをすます」が出来上がりました!

正真正銘のできたてホヤホヤ。製本所から出版社に16日のお昼に届いたものを、夕方に受け取ってきました。

混声合唱と打楽器のための みみをすます

谷川俊太郎 詩 / 堀内貴晃 作曲

MIMI O SUMASU (Listening)For Mixed Voices and Percussion

Poem by Shuntaro TANIKAWA / Music by Takaaki HORIUCHI

音楽之友社 定価1700円(+税)

です。

ナゼ英語のクレジットまで書くかと言うと、わざわざ外国向けにローマナイズした歌詞まで併記しているからです。日本語はかなりのマイナー原語に属するので、外国の団体に演奏されるのは難しそうだけど、なんとか諸外国でも演奏されて欲しい!

これから問屋さんを経由して配本されるので、1週間くらいしたら店頭でも見かけられるようになるはず。打楽器共演というマニアックな編成が原因で売れ行きの予測が難しいために、初版分の著作権料はナシという契約になってしまいました。(その分自分で浄書して浄書屋としての制作費は貰いましたが。) 2刷目にならないと著作権収入がないんですね。ショボン。

みなさん、買ってね!1冊買って頂くと5%の85円が僕の口座に入ってきます!本当は、買ってくれるよりは、ダイレクトに僕に100円くらい恵んでくれた方がもっと嬉しい!(笑)

今日は出版社で出来立てホヤホヤの楽譜を受け取って、その足で合唱団の練習に立ち会ってきました。(運び屋を手伝ってくれたI上くんありがとう。)今週の土曜日に行われる合唱コンクールの全国大会でこの「みみをすます」が演奏されるんです。その事前練習の立ち会いに行ったのでした。そして最後1時間くらいを貰って、直接「みみをすます」の指導。出版までされたんだから完全に自分の手を離れた、と言いたい所だけど、実際は作り手として「この音はこうであって欲しい」という希望がどこまでもつきまとってしまいます。それがベストとは限らない事もわかっているのに、それでも。

僕は所用のために新潟に聴きにいけませんが、いい音が新潟に響きそうな予感でした。いい演奏をして、お客さんを感動させて下さいね!>合唱団の皆様新潟で聴けない皆様も、是非楽譜屋さんで楽譜を手に取ってみて下さい!

【合唱団まい第9回演奏会】◇日 時:2005年10月22日(土) 19:00開演(18:30開場)◇場 所:松本ザ・ハーモニーホール(松本市音楽文化ホール)◇入場料:一般1,500円 大学生以下:800円◇プログラム: 1 ウィリアム・バード    Mass for five voices 5声のミサより 2 モンテヴェルディ    Lagrime d’amante al sepolcro dell’amata 愛する女の墓にながす恋人の涙 3 八木幹夫:詞・堀内貴晃:曲    野菜畑のソクラテス 〜無伴奏混声合唱のための〜 4 高野喜久雄:詞・高田三郎:曲    混声合唱組曲 水のいのち◇ピアノ:あずまみのり◇指 揮:雨森文也http://homepage3.nifty.com/coromai/少人数ながら高純度のアンサンブルに定評ある合唱団のコンサートです。松本は、東京からでもわずか3時間。合唱を聴きたい人も、サイトウキネンの残り香を嗅ぎたい人も(笑)松本に集合しましょう!

来る10月10日(祝)に金沢でコンサートがあります。室生犀星記念館の企画で、室生犀星の詩に作曲された音楽を味わおうと言うコンサート。このコンサートの編曲を4曲担当したので、ご興味がおありの方はいらしてください。(無料だけど先着申し込みが必要です。)僕も日帰りで金沢に直行する予定。 音で楽しむ犀星詩  ◆日 時 平成17年10月10日(月・祝)14時〜15時(開場13時30分) ◆場 所 泉野図書館オアシスホール ◆演 奏 オーケストラ・アンサンブル金沢メンバーによる弦楽四重奏 ◆合 唱 女声合唱団「杏(あんず)」メンバーほか ◆参加費 無料 ◆定 員 120名 ◆申 込 076−245−1108 (室生犀星記念館)、先着順http://www.city.kanazawa.ishikawa.jp/bunho/saisei/kikaku/index.htm曲目は◇犀川/磯部淑 作曲(女声合唱+弦楽四重奏)◇時無草/磯部淑 作曲(女声合唱+弦楽四重奏)◇かもめ/弘田龍太郎 作曲(メゾソプラノ独唱+弦楽四重奏)◇海浜独唱/畑中良輔 作曲(バリトン独唱+弦楽四重奏)の4曲(堀内貴晃編曲)と◇ふるさと/磯部淑 作曲(男声合唱)の1曲です。(原曲)#全て詩は室生犀星のもの。弦楽四重奏はピアノと全く違う表情が引き出せて面白い編曲作業でした。声と弦を合わせられるチャンスなんてそうそうないからね。

岐阜県の合唱コンクールに審査員と呼ばれて行ってきました。審査員という仕事は初体験。いつもは何かの曲なり演奏なりを聴いて好き勝手にあーだこーだと言っているものの、「審査員」として自分の評価がはっきり人に影響を与えてしまう立場になると、姿勢を正さざるを得ない。大人の団体でも懸命に練習してきた成果を他者からどう評価されるか、またそれによってより上の大会に出場出来るのか否かは一大事だし、ましてや中高生にとっては審査結果はその後の人生すら左右しかねないくらいに重く受け止められるはずだ。できれば全員に良い成績をあげたいと思う。とは言え、コンクールの場は(努力姿勢そのものに対してではなく)音楽の結果に対して優劣を決める場だ。何よりも適正な審査をしてあげたいと考えながら審査にあたった。審査される側(出演者)や第3者からの「この評価はおかしい!!」という声は、どんなコンクールにもつきまとうものだろう。「あの審査員は耳がおかしい」とか「○○合唱団とつながりがあるから評価が高いんだ」とか、「自分の趣味で点数を付けてる!」「自分の曲演奏すると点数が高いんだね」などなど・・・。善かれ悪しかれ、結果に対する印象は人間の数だけ存在するだろうし、そのこと自体は自由に意見交換されれば良いと思うけど、僕はこれまで、審査する側(=審査員)からの意見と言うのをあまり見聞きした事がない。今回、初めて審査する立場に立ってみたので、この機会に審査する立場で考えた事を書いてみておこうと思う。もちろんこれは「堀内貴晃という人間が初めて審査員を引き受けた時に考えた事」でしかないので、以下の文章は審査員の一般的/平均的姿勢を示すものでもないし、自分自身の考えも今後変わって行く可能性も多いにあり得る、という枠の中での文章です。一意見以上でも以下でもあり得ないのだ、という前提でお読み下さい。一聴衆としてコンクールを聴いていた時には、多かれ少なかれ自分の好みや趣味、主義を通した上で各々の演奏を楽しんでいました。多くの人もそうでしょう。「あの団体は完璧だけどツマラナイ」とか「失敗も多いけど暖かみが好き」だとか「選曲が悪くてもったいない」「様式感はないけど却って新鮮だ」とか。それはそれはいろいろ思います。でも、審査員としてそれを丸ごと適用してしまうわけにはいかないわけです。けれど一方で、音楽は絶対的な正解を出していけば魅力的なものになるというわけでもない。そこで、今回は技術点と芸術点を半々にして採点する事にしました。技術点は、発声、音とり、リズム、デュナーミク、テンポなどの、どの団体でも守らなくてはいけないような事。高音域でピッチがぶら下がったとか、不協和音を良く聞いたらテナーの音がずれていたとか、和音の配置を変えていた(実際にありました。単に音を増やせば豪華になるわけじゃないのに)とか、出だしが揃わなかった、切り方がずれた、ディクションが音符と一致しているかどうか、パートごとのバランスが著しくずれている、・・・といった項目はここで減点・得点します。従って技術点には全く僕個人の趣味・好みが反映される余地はナシ。芸術点は、曲の様式感を踏まえているか、楽譜の指示を楽曲構造の中で活かせているか、音色の狙いが楽曲の要求に叶っているか、詩のニュアンスが音楽の中に生きているか(音符を無視して詩の意味だけで迫っているのは△です)、フレーズの流れ方、奥行きは、アンサンブル力は、呼吸感は、会場の巻き込み方は、曲の面白さをリアライズしているか、演奏に魅力があるかどうか、・・・などの項目がここで減点・得点されます。こちらの方は多少自分の趣味・好みが関係した部分もあるでしょうが、基本的に「楽譜を出発点として」捉える事を主体としています。従って自分の好みの曲だから点数が高い、嫌いな曲だから点数が低いという事は全くありません。今回の場合は、課題曲と自由曲を5:5の比率で採点して欲しいという運営側からの要望。そして審査員(5名)それぞれが出した順位を集計して全体の順位を決めるという条件でした。合計順位が近接している場合は新増沢方式とかナントカ、最終順位を決める一定のルールがあるらしいけれど、それは全く僕の関知出来ない世界。順位とは別に金銀銅各賞の数は審査員で討議する項目だったので、演奏の内容や点数を見ながら、何位から何位までを銀賞にしましょう、と一通り討議しましたが、これは全部の演奏が終わってからの話。実際に採点にあたる為に、僕個人としては課題曲の技術点50/芸術点50。自由曲の技術点50/芸術点50。合計200点満点で採点して、終わってから点数に従って順位並べ替えという方法をとりました。ただし、技術点にしても芸術点にしても、どの水準が「平均値」であるかは全体を聞き終わるまではわかりません。だから各部門の最初の一団体を暫定的に「技術点30/芸術点30」と設定してから聴き始めます。明らかに「これはちょっと水準が・・・」という場合は、20点/20点に設定します。あるいは「こりゃスゲエ!」という団体が一番目なら35点/35点あたりに基準を設定。そうしないと後に他の団体との差異をつける余地が少なくなってしまうからです。そして、2団体目以降は1団体目の基準に照らし合わせながら演奏を聴いて、より上か下かを点数で出して行きます。けれど、全く機械的に点数を決められるわけでもないし、一つ前の団体の印象を全く消して次の団体を聴くこともできないので、数団体前の他の団体とも比較しながら、時には点数を修正します。団体Cは団体Bよりは点数が下がるけれど、でも団体Aよりは失敗が少ないからBとAの間の点数にしないといけない、・・・という場面もありますから。「最初につけた点数+若干の修正」で最終的な点数や順位が決まります。修正を要した場面は今回では3回くらいだったかな?上位団体は意外な位あっさりと決まったので、修正を要した場面はありませんでした。今回たまたまそうだった、というだけの事だと思いますが。よく「難しい曲(たとえば現代音楽)だったら評価が高いのか」「簡単な曲(たとえばクラス合唱の愛唱曲)だったら高い評価が得られないのか」という意見を聞きますが、そう単純に点数が出るものでもありません。難しい曲の場合は、難易度の高い曲をやっているわけだから、楽譜通りに音が鳴っていれば当然技術点はある程度高くつけてあげられるけど、よく楽譜を見ていると和音が少し違っていたり、リズムがくずれかかったりしている事もあります。そして、楽譜を再現する事で精一杯になってしまって、そこから先の音楽表現の領域が豊かでない場合には芸術点は低くつけざるを得ません。作曲家が狙い、目指した領域は、ロマン派の音楽などに比べて楽譜上にくっきり音型として表れている事が多いですからね。簡単な曲の場合は、楽譜通りに音が鳴っていればもちろん技術点は保証出来ますが、シンプルなだけに、(楽譜を読むまでもなく)ちょっとしたミスが目立ちやすい。そして、豊穣な音楽としてシンプルな音楽を響かせるためにはよほど充実した音楽性を持っていないと難しいでしょう。2小節のフレーズを歌う為にも力点を踏まえなくてはいけないし、全体構造として聴く側を納得させるのも至難の業。採点する立場から考えると「楽譜の要求している内容を実現出来るか」という一点のみから聴いていくので、結局は難しい曲でも簡単な曲でも、あるいは僕が好きな曲でも嫌いな曲でも、採点には関係ない、という事になります。果たしてそう簡単に割り切れるか?と思ったけれど、やってみたらスンナリ割り切れました。逆に言えば、その辺の尺度を曖昧にして好みに走ると、首尾一貫した採点なんてできなくなります。「少人数は不利なのか?」という声も聞きますが、別に大人数のfffばかりが音楽の魅力じゃありません。少人数でも人数に即した表現が実現されていれば高く評価できます。けれど、少人数だからfとffとfffの違いがない、pとppの違いがない、というのでは淋しいです。それは一人の人間でも表現し得る領域なのだから、絶対的な音量ではなく、相対的な音量の中でコントラストを聴きたいと思います。審査している時には、審査用のメモ用紙が与えられているので、団体ごとに全体的な印象を書いておいたり、○小節目アルト低い、×小節ザッツずれ、△小節fと▽小節pの対比弱い、◇小節fff頂点前倒し、とかなんとか沢山メモしながら聴いています。これがやってみると意外と大変。そのうち慣れるのかも知れないけど。楽譜を(自由曲は初見で)見ながら演奏を聴いて、減点/得点要素をバーっと書き出して、演奏が終わってからざっと計算して採点、という流れだから、好みの事なんて考える余裕がない、というのが正直なところです。因みにこの時のメモは、コンクール終了後の合評会という場で各団体の代表者に講評を伝える時にも使います。数を聴くとどの団体がどの演奏だったか、印象が混ざってしまいますからね。その日初めて知った団体ばかりだし。因みに各団体3分しか時間がない。10分くらいかけて書いた審査メモを3分で話さなくてはいけないので、メモした内容全部を伝えられるわけがなく、だいたいは全体的な課題(と、僕が思ったもの)を伝えて、その具体例として何ページの何小節のところでこうだったでしょう?、という事を話します。特に上の大会に進んだ団体はまだ曲の練習を続けるわけなのでより良い演奏になるように、と具体例を多く指摘してみましたが、果たしてどこまで伝えられたのか。直接レッスンする機会でもあればいいけれど、伝えっぱなしの場合にどこまで適切に伝えうるか。今後の僕の課題です。因みに、岐阜県の場合は合評会という形で伝えましたが、県によっては講評用紙にコメントを書き入れて渡す方式をとっているところもあるそうです。どちらの方式にも一長一短あるのでしょうが、審査された方からすると、審査員の審査姿勢を伺い知る機会にもなるだろうし、次の活動の糧に出来る場合もあるだろうし、なにがしかのコメントがある事はいい事なんでしょう。・・・以上が審査にあたって感じ/考えた事。しかし、これだけでは終わりません。なんと初審査員だったにも拘らず、この日はコンクールの全体講評を任される事になってしまいました。他の4人の審査員のみなさんはそれぞれに経験豊かな先輩だったので、僕みたいなペーペーが話す場面では無いと思ったんですが、断りきれずにズルズルと・・・。全ての演奏が終わって一刻も早く審査結果を知りたい!と思っている人が渦巻いている会場で話すのって難しいです。その日全体の課題として感じた「コミュニケーションとしてのからだ」の事を話させてもらったけれど、話が抽象的になってしまった。一番伝えたかった中高生に伝えきれなかったような気がして心残り。なのでここで補足しておきます。作曲家が楽譜を書く時には、多くの場合は何らかの表現なり意図なり、伝えたい事があって、その一つの手段として楽譜に書き、伝えようとするものだと思います。けれど、自分の耳や体の中にたしかに存在した具体的な音のイメージ(それは高さ、大きさ、長さ以外にも色、重さ、距離、温度、といった様々な要素をともなった現実的な一つの存在であると思う)は、楽譜に書く段階で「音の高さ、大きさ、長さ」という要素だけに絞られてしまう。espressivoとかdolceとか書いてなんとか視覚的に残せるものは残したいと思うけれども、それはやはり、最初にイメージされた音と同じではないのです。となると、演奏者の方では、書かれた音符以外に「抜け落ちてしまったはずの情報」を補って再現していかないといけないし、その補完の具合が充実していればいるほど、いわゆる「名演奏」に近づくというのが一般的なのではないかと思います。(中には作曲者のイメージを越えた名演奏、全く違う再現だけど面白い演奏というのもあるけれど、いまは検討から外しましょう)ではどうやって抜け落ちた情報を補えば良いのかというと、何よりも音楽的な経験や勘が働くかどうか、という事が大切になってくるでしょう。その音楽的な経験や勘はどこに結びついてくるかと言うと、人間としての根源的な生活体験に直結しているのではないかと、最近僕は考えています。頭の中にある知識や感情は人それぞれ違うかも知れない、身の回りにある電化製品も人によって様々。けれど、リンゴが重力で下に落ちる、葉っぱが風を受けながらゆらゆら落ちる、波が押し寄せてからゆったりと、泡を残しながら引く、太陽がゆっくり沈んで夜の帳がすっとそばまで忍び寄る、といった経験は、どの人にも共通している事で、ブラームスだってパレストリーナだって大伴家持だって共通していたはずです。(もう少し上手いたとえが出来ないかなぁ。)人間全てに共通する経験ならば、それを活かした表現というのは全ての人に共感して貰い得る要素にはならないだろうか。多くの人に伝わるならば、それだけ演奏を受け入れてもらえる素地に近づかないだろうか。直線的な表現が(多くの場合は)拙く思えて、曲線的な表現が(多くの場合)より豊かな表現に感じられるのは人工/自然の問題とは関係あるのではないだろうか?自然発生的に人と交わす会話は、拙い演奏よりずっとずっと表現力に満ち満ちていていると、僕は思います。その言葉/動きの背景にはその人本人の存在と不即不離の裏付けがあるから。優れた音楽ならば、そうした会話よりも雄弁に、しかも言語では成し得ない領域の表現を掬い上げるものでしょう。が、現実問題として、日常生活する中で行っている表現ほど雄弁に音楽の中で「語る」事はとても難しい。・・・ここから先は整理しきれていないのでメモ書きに変わりますが、例えばひとくちに5kg。と言っても、鉄アレイ5kgと綿菓子5kgだと、手に持った時の実感が違うでしょう。5kgの人間の赤ちゃんと、5kgの猫と、5kgのヘビだったら、どれもダッコするときの手つきが違うのでは?それを、多くの人は今までの経験から推測出来る。ヘビを持った事が無い人でも、嫌いな人ならビクビクやっとの思いで触るだろうとか、なんらかの想像ができる。同様に楽譜にfと書いてあったなら、それを多様に解釈出来ないだろうか。小声をマイクで拾ったf、1000人で抗議の声を上げるf、一人で山で叫ぶf、サプライズプレゼントの喜びに、思わず声を失った「!」というf。pなら、今にも死にそうな消え入るp、緊張感みなぎった忍び足のp、はるか遠くでお祭りのどんちゃん騒ぎをやっているp。それらをたくさん(極端に)実験しながら組み立てて行く事で、「絶対これが正解!」と思えるような表現に出会えないだろうか。音楽経験豊かな人ならば、音符の組み立ての中から想像する事も可能だけど、そうでない人/団体であっても、fの出し方をあれこれ50種類くらい試してみたら、その中に「これが一番いい!」と直感出来る表現が見つかるのではないだろうか。一部分でそれが決定したら、それを前後の部分とつなげて演奏してみた上でもう一度検討する。それを繰り返して行く事によって、楽曲全体と団体とがうまくツボにハマって合致するポイントがあるのではないだろうか。それを「歌う事」、そして「聴かせる事」両面で実現出来ると、実力が変わらなくても音楽的説得力が圧倒的に増えるのではないか。そんな気がする。特に合唱という、人間の集団そのままの表現が直接表出される媒体においてはそれが効果的なのではないだろうか。演奏している側も、聴いている側も、断然面白く音楽と生活を結びつける事ができると思う。そして最後に一冊の本を紹介。興味のある方は読んでみて下さい。表現として演奏を面白くする為にどうすれば良いか、という事を具体的に気づかせてくれる本だと思います。アマチュアはもちろん、音大学部生くらいまでは充分読む価値がある内容です。リンク先では今は品切れ中のようですが、楽器店等の在庫はまだ見つかると思います。「生きた音楽表現へのアプローチ—エネルギー思考に基づく演奏解釈法」保科 洋 (著)/音楽之友社(刊)1998年定価3990円

« Older entries § Newer entries »