メモ・雑記・プログラムノート

You are currently browsing the archive for the メモ・雑記・プログラムノート category.

Max Reger (1873-1916)の美しい合唱曲Nachtlied, op.138-3のテキスト分析です。テキストの作者はPetrus Herbert (1533-1571)というプロテスタントの神学者。詩作でも有名な方。

ある合唱団からこの曲の指導を依頼されて楽譜を見てみたのですが、国内で唯一(?)出版されているこの曲の楽譜の歌詞ページではなんと、もともと2行であるところが1行にまとめられて掲載されていました。新聞のようにスペースがないから「/」で改行を示すというわけでもなく、単に行をつなげただけ。詩において改行をどこで行うかはその詩のアイデンティティにもかかわる重大事です。それをそんな形でずさんに扱うなんて。

こんな場面でも「西洋詩の読み方」の基本が周知されていない事に愕然としたので、簡単な分析を行いました。 学術的に正しく研究したいわけではないので、ネットから拾ってきたテキストを資料としたものですが、公開しておきます。

別に特別なものではなく、この種の西洋詩を構造的に分析する場合の基本事項を書き起こしただけのものです。演奏指導のための分析なのでMax Regerの付曲がどのように行われたかを反映している点はある程度ユニークかもしれません。ただしこれも、本来は誰でもできる程度の、解釈のための出発点(=事実確認)ですし、演奏する人なら当然知っておきたい前提知識です。

従って細かい解説は書いてありませんし、演奏するためには当然音楽的な分析も必要です。より詳しく興味のある方、しっかり学んでみたい方は個別にご連絡を。

→ Textanalyse (PDF)

フルートアンサンブル・トリプティークのCDクラシック・ニュースで紹介されました。

この一枚のCDで感じるものがあった。知名度が高いというわけ でないが心から気持ちを寄せあえる仲間と音楽を創る喜びに浸る 事が出来る。何という幸せだろうか! また堀悦子で見せた「今」の音楽に対する姿勢も大切である。よきパートナーに恵まれて、地味ながら長続きする活動こそ、いまもっとも求められるのではないだろうか、考えさせられた

これはアンサンブル活動する人たちに対する最大級の賛辞ではないでしょうか?

自分の関わったCDですので、こうしたレビューが出てくる事はとても嬉しいです。

http://classicnews.jp/c-news/index.html#2

いのちがもし

無伴奏女声合唱のための「いのちが もし」にまつわる作曲のメモ。こういう見方もあるのだ、という紹介。

この曲は、日本合唱指揮者協会の創立50周年の記念で委嘱されたもので、依頼内容としては「合唱団に愛し歌われる曲」というようなものだったのですが、いわゆる「愛唱曲」でイメージされるような、ロマン派に根を持つ音楽のnarrativityから離れたところで作ってみました。かと言って前衛的なものを提出するわけではなく、普段歌い慣れているnarrativな音楽とそうではないものの狭間に位置するような曲を作ることで、合唱団の人が少し別の世界を体験できる機会になればと考えたものです。

テキストは、工藤直子さんの小説「ねこはしる」(童話社)の一部を、工藤さんの許可を得て使わせて頂きました。深謝。

Read the rest of this entry »

6月17日11時から初演@ドイツのフライブルク劇場で、弦楽三重奏のためのSimileが初演されます。

何の手違いか、フライブルク劇場のサイトには一番最初に出した仮タイトルBewegung(動き)として載せられてしまっていますが、ご愛嬌。

初演だし、とても聴きたい(&見たい)のですが、行くだけの余裕がなくて断念です。残念。近郊の方はもし都合がつくようでしたらお運び下さい。2011年初めに書いた曲です。

simileは、イタリア語であると同時に同じ表情を/同じ事を続けなさい、という意味で使われる音楽用語でもあります。simileは知らない人も、実は日本語の日常語になったsimileはご存知のはずですよ。ファックス→ファクシミリがそれです。英語で書くとFacsimileなんですが、これはラテン語のfac simileから来ています。facは「作れ」で、simileは「似せて」。つまりfac simileは「似せて作れ」という意味なんです。別に電話線を使うFAXに限らず、複写されているものはfacsimileなんですね。

楽譜なんかでも、作曲者の自筆譜や初版譜をそのまま複写したものが必要になることがありますが、そういう楽譜を「ファクシミリ版」と読んでいますね。

さて、なぜ僕の曲がSimileかというと、ヴァイオリン、ヴィオラ、チェロという大きさの違う3つの楽器の相似関係を利用して、音程ではなく演奏の身体スケールを比率として取り扱っています。

様々な音程の動きをcmで計算し、数字で作曲しているんです。ヴァイオリンにとっての開放弦→オクターブの指の移動距離はチェロの場合には?みたいな発想で。

でもヴァイオリンとヴィオラは、持ち方まで含めて相似形ですよね。それに対してチェロは、楽器の向きがほぼ反対のようになります。そのあたりのギャップも、曲の中で利用して、さまざまなsimileの形を投入してみました。

 

そういう曲なので、音だけ聴くよりも、目で見たほうがずっと面白いはずです。なので初演に立ち会えないのはとても残念。ビデオでも送ってもらえると嬉しいんだけどなぁ。

先日出版されたメンデルスゾーン作曲の「吹奏楽のための序曲」に続いて、僕が解説を担当したリムスキー=コルサコフ作曲「クラリネットと吹奏楽のためのコンツェルトシュトゥック」のミニチュアスコアが日本楽譜出版社から出版されました。パチパチパチ。

吹奏楽をやっていない人にはあまり知られていない事実かもしれませんが、リムスキー=コルサコフは海軍の軍楽隊を指導していた時期もあり、オリジナルの吹奏楽を3曲書き残しています。いずれも独奏楽器+吹奏楽という編成ですが、この「コンツェルトシュトゥック」はその中の一つというわけです。

「リムスキー=コルサコフ」と言えば今日でも繰り返し演奏されている人気曲も多く、立ち位置としては「大作曲家」と呼んでも差し支えない存在だと思いますが、今回この解説原稿を書くにあたって日本の現役出版物を見回してみると、意外とリムスキー=コルサコフの全体像や音楽史との関係を俯瞰しやすい手頃な書籍がない事に気づきました。

このあたりの事情は、先に書いたメンデルスゾーンの時も同じでしたが、リムスキー=コルサコフの場合には「ロシア音楽」という要素がいっそう事情を悪くしています。

なので、この解説はまず「そもそもロシア音楽って」という話から始まって、その中に生まれたリムスキー=コルサコフの立ち位置や創作の全体像が読めるような内容にまとめてみました。

単に曲の解説というだけのものよりは、「ロシア音楽とリムスキー=コルサコフ」というものをいろいろな要素と紐付しながら把握していけるような、そういう解説を目指したつもりです。

もちろん音楽の内容についても詳細に触れています。音符の並べ方の話はもちろん、管楽器なので、楽器の事情にもいろいろと言及。現代とは大違いなので、中高生の吹奏楽っ子が興味を持った時に誘導できるようにしておかないと。

上述のように日本語の資料が非常に乏しいのですが、さすがに原稿のためにロシア語を始めるまでの余裕は無かったので、英語とドイツ語の資料を駆使して書いています。ところで、リムスキー=コルサコフが自伝を書いていたのはご存知でしたか?

かつて邦訳も出てはいたのですが、この時にはまだ原本のロシア語も完全版が出版されていなかったので、日本語版はごく一部の抄訳のみ。大事な部分が隠されています。

これを読むと彼の視点を通してロシア五人組をはじめとする当時の周辺事情が実によく分かる!彼の几帳面な性格と客観的な観察態度もよくわかります。この自伝の成立事情についても解説の中で言及しましたが、しっかり研究するとだいぶ面白い論文が書けるのではないかと思います。

写真は、なんとか中古で取り寄せることに成功したドイツ語版。ボロボロでページが焼き芋の皮のように剥がれ落ちそうなのをなんとか読みました。

他にお世話になった資料で面白いものといえば、一冊まるごとバセットホルンの本でしょうか。どこの工房で何年に作られた楽器のキーはいくつあって内径は何センチでなんて情報や、バセットホルンのために作曲された作品の膨大な目録があったりと、バセットホルン愛好家には垂涎の的であろう一冊。こんな本が世の中に存在するんだなぁ。もっとも、ヴァイオリンやフルート、ピアノだったらこの種の本は情報量が多すぎて逆に作れない。

別にバセット・クラリネット愛好家でない僕は、おそらくこの解説を書く機会がなければこの本に出会うことは無かったでしょう。それもこれも見慣れぬ楽器を指定しているリムスキー=コルサコフのせいです。

あ、そうそう。リムスキー=コルサコフって名前になぜ「=」が入ってくるのかは知っていますか?英語で書くときもハイフンは欠かせません。Rimsky-Korsakovです。それからロシアの名前は〜ヴィッチで終わるものも多いですよね。ロシア文化に馴染んでいないとなかなかわかりにくい「名前のルール」も紹介しています。読めば飲み会のネタになるかもしれません。

 

小ネタのことはさておき、全体としては音楽全体を骨太に汲み取って頂ける解説になったのではないかと思います。吹奏楽人も、そうでない方も、是非お買い求め下さい。英訳付きです。

ニューヨークフィルのサイト。マゼールと録音した全集をダウンロード購入できるようになりました、という特別サイトなんだけど、(僕にとっては)音源よりさらに魅力的なコンテンツがありました。ページ上の右側にある薄汚れた肌色の画像をクリックしてみて下さい。Follow along in Mahler’s personally notated score as you listen to Mahler’s First.と書いてあるところ。ちょうど100年前の1909年12月16日と17日に、マーラー自身がニューヨークフィルを振って交響曲1番のアメリカ初演をしているんだけど、この楽譜はその時にマーラー自身が指揮のために使用した楽譜なんだそうです。じっくり読んだわけじゃありませんが、ざっと駆け足で全ページをめくってみたところ、書き込みは、指揮者がごく自然に楽譜を読む時のような、指揮するための覚え書きのような書き込みが殆どで、「振る時は指揮者として楽譜を読んでいたんだなぁ」という当たり前の事に改めて気づきます。この楽譜から「作曲者の自作自演」という事をかぎ取ろうとするなら、書き込みがむしろ少なめで端的である、という事実がそれを物語っていると言えなくもないのでは、というくらいでしょうか。一部では音符の書き換えも見られます。例えば35ページではファゴットの1、2番が書き換えられていますね。ただし、この程度なら当時の演奏習慣ではそれほど珍しくないだろうから、まだ作曲者ならではの痕跡と言うには弱い。この程度の小変更は他にも散見できます。作曲者ならではの書き込みだと言えそうなのは130ページでの2小節カット140ページでの小節ごとアクセント145-146ページでの結構大胆な音量変化この3カ所が特に目立つんじゃないかと思います。もちろんじっくり見て検討していけば他にも興味深い点がたくさん出てくるでしょう。楽譜と見比べて、ニューヨークフィル関連の音源聞き比べをしたらかなり楽しめそうですね。

岐阜県の合唱コンクールに審査員と呼ばれて行ってきました。審査員という仕事は初体験。いつもは何かの曲なり演奏なりを聴いて好き勝手にあーだこーだと言っているものの、「審査員」として自分の評価がはっきり人に影響を与えてしまう立場になると、姿勢を正さざるを得ない。大人の団体でも懸命に練習してきた成果を他者からどう評価されるか、またそれによってより上の大会に出場出来るのか否かは一大事だし、ましてや中高生にとっては審査結果はその後の人生すら左右しかねないくらいに重く受け止められるはずだ。できれば全員に良い成績をあげたいと思う。とは言え、コンクールの場は(努力姿勢そのものに対してではなく)音楽の結果に対して優劣を決める場だ。何よりも適正な審査をしてあげたいと考えながら審査にあたった。審査される側(出演者)や第3者からの「この評価はおかしい!!」という声は、どんなコンクールにもつきまとうものだろう。「あの審査員は耳がおかしい」とか「○○合唱団とつながりがあるから評価が高いんだ」とか、「自分の趣味で点数を付けてる!」「自分の曲演奏すると点数が高いんだね」などなど・・・。善かれ悪しかれ、結果に対する印象は人間の数だけ存在するだろうし、そのこと自体は自由に意見交換されれば良いと思うけど、僕はこれまで、審査する側(=審査員)からの意見と言うのをあまり見聞きした事がない。今回、初めて審査する立場に立ってみたので、この機会に審査する立場で考えた事を書いてみておこうと思う。もちろんこれは「堀内貴晃という人間が初めて審査員を引き受けた時に考えた事」でしかないので、以下の文章は審査員の一般的/平均的姿勢を示すものでもないし、自分自身の考えも今後変わって行く可能性も多いにあり得る、という枠の中での文章です。一意見以上でも以下でもあり得ないのだ、という前提でお読み下さい。一聴衆としてコンクールを聴いていた時には、多かれ少なかれ自分の好みや趣味、主義を通した上で各々の演奏を楽しんでいました。多くの人もそうでしょう。「あの団体は完璧だけどツマラナイ」とか「失敗も多いけど暖かみが好き」だとか「選曲が悪くてもったいない」「様式感はないけど却って新鮮だ」とか。それはそれはいろいろ思います。でも、審査員としてそれを丸ごと適用してしまうわけにはいかないわけです。けれど一方で、音楽は絶対的な正解を出していけば魅力的なものになるというわけでもない。そこで、今回は技術点と芸術点を半々にして採点する事にしました。技術点は、発声、音とり、リズム、デュナーミク、テンポなどの、どの団体でも守らなくてはいけないような事。高音域でピッチがぶら下がったとか、不協和音を良く聞いたらテナーの音がずれていたとか、和音の配置を変えていた(実際にありました。単に音を増やせば豪華になるわけじゃないのに)とか、出だしが揃わなかった、切り方がずれた、ディクションが音符と一致しているかどうか、パートごとのバランスが著しくずれている、・・・といった項目はここで減点・得点します。従って技術点には全く僕個人の趣味・好みが反映される余地はナシ。芸術点は、曲の様式感を踏まえているか、楽譜の指示を楽曲構造の中で活かせているか、音色の狙いが楽曲の要求に叶っているか、詩のニュアンスが音楽の中に生きているか(音符を無視して詩の意味だけで迫っているのは△です)、フレーズの流れ方、奥行きは、アンサンブル力は、呼吸感は、会場の巻き込み方は、曲の面白さをリアライズしているか、演奏に魅力があるかどうか、・・・などの項目がここで減点・得点されます。こちらの方は多少自分の趣味・好みが関係した部分もあるでしょうが、基本的に「楽譜を出発点として」捉える事を主体としています。従って自分の好みの曲だから点数が高い、嫌いな曲だから点数が低いという事は全くありません。今回の場合は、課題曲と自由曲を5:5の比率で採点して欲しいという運営側からの要望。そして審査員(5名)それぞれが出した順位を集計して全体の順位を決めるという条件でした。合計順位が近接している場合は新増沢方式とかナントカ、最終順位を決める一定のルールがあるらしいけれど、それは全く僕の関知出来ない世界。順位とは別に金銀銅各賞の数は審査員で討議する項目だったので、演奏の内容や点数を見ながら、何位から何位までを銀賞にしましょう、と一通り討議しましたが、これは全部の演奏が終わってからの話。実際に採点にあたる為に、僕個人としては課題曲の技術点50/芸術点50。自由曲の技術点50/芸術点50。合計200点満点で採点して、終わってから点数に従って順位並べ替えという方法をとりました。ただし、技術点にしても芸術点にしても、どの水準が「平均値」であるかは全体を聞き終わるまではわかりません。だから各部門の最初の一団体を暫定的に「技術点30/芸術点30」と設定してから聴き始めます。明らかに「これはちょっと水準が・・・」という場合は、20点/20点に設定します。あるいは「こりゃスゲエ!」という団体が一番目なら35点/35点あたりに基準を設定。そうしないと後に他の団体との差異をつける余地が少なくなってしまうからです。そして、2団体目以降は1団体目の基準に照らし合わせながら演奏を聴いて、より上か下かを点数で出して行きます。けれど、全く機械的に点数を決められるわけでもないし、一つ前の団体の印象を全く消して次の団体を聴くこともできないので、数団体前の他の団体とも比較しながら、時には点数を修正します。団体Cは団体Bよりは点数が下がるけれど、でも団体Aよりは失敗が少ないからBとAの間の点数にしないといけない、・・・という場面もありますから。「最初につけた点数+若干の修正」で最終的な点数や順位が決まります。修正を要した場面は今回では3回くらいだったかな?上位団体は意外な位あっさりと決まったので、修正を要した場面はありませんでした。今回たまたまそうだった、というだけの事だと思いますが。よく「難しい曲(たとえば現代音楽)だったら評価が高いのか」「簡単な曲(たとえばクラス合唱の愛唱曲)だったら高い評価が得られないのか」という意見を聞きますが、そう単純に点数が出るものでもありません。難しい曲の場合は、難易度の高い曲をやっているわけだから、楽譜通りに音が鳴っていれば当然技術点はある程度高くつけてあげられるけど、よく楽譜を見ていると和音が少し違っていたり、リズムがくずれかかったりしている事もあります。そして、楽譜を再現する事で精一杯になってしまって、そこから先の音楽表現の領域が豊かでない場合には芸術点は低くつけざるを得ません。作曲家が狙い、目指した領域は、ロマン派の音楽などに比べて楽譜上にくっきり音型として表れている事が多いですからね。簡単な曲の場合は、楽譜通りに音が鳴っていればもちろん技術点は保証出来ますが、シンプルなだけに、(楽譜を読むまでもなく)ちょっとしたミスが目立ちやすい。そして、豊穣な音楽としてシンプルな音楽を響かせるためにはよほど充実した音楽性を持っていないと難しいでしょう。2小節のフレーズを歌う為にも力点を踏まえなくてはいけないし、全体構造として聴く側を納得させるのも至難の業。採点する立場から考えると「楽譜の要求している内容を実現出来るか」という一点のみから聴いていくので、結局は難しい曲でも簡単な曲でも、あるいは僕が好きな曲でも嫌いな曲でも、採点には関係ない、という事になります。果たしてそう簡単に割り切れるか?と思ったけれど、やってみたらスンナリ割り切れました。逆に言えば、その辺の尺度を曖昧にして好みに走ると、首尾一貫した採点なんてできなくなります。「少人数は不利なのか?」という声も聞きますが、別に大人数のfffばかりが音楽の魅力じゃありません。少人数でも人数に即した表現が実現されていれば高く評価できます。けれど、少人数だからfとffとfffの違いがない、pとppの違いがない、というのでは淋しいです。それは一人の人間でも表現し得る領域なのだから、絶対的な音量ではなく、相対的な音量の中でコントラストを聴きたいと思います。審査している時には、審査用のメモ用紙が与えられているので、団体ごとに全体的な印象を書いておいたり、○小節目アルト低い、×小節ザッツずれ、△小節fと▽小節pの対比弱い、◇小節fff頂点前倒し、とかなんとか沢山メモしながら聴いています。これがやってみると意外と大変。そのうち慣れるのかも知れないけど。楽譜を(自由曲は初見で)見ながら演奏を聴いて、減点/得点要素をバーっと書き出して、演奏が終わってからざっと計算して採点、という流れだから、好みの事なんて考える余裕がない、というのが正直なところです。因みにこの時のメモは、コンクール終了後の合評会という場で各団体の代表者に講評を伝える時にも使います。数を聴くとどの団体がどの演奏だったか、印象が混ざってしまいますからね。その日初めて知った団体ばかりだし。因みに各団体3分しか時間がない。10分くらいかけて書いた審査メモを3分で話さなくてはいけないので、メモした内容全部を伝えられるわけがなく、だいたいは全体的な課題(と、僕が思ったもの)を伝えて、その具体例として何ページの何小節のところでこうだったでしょう?、という事を話します。特に上の大会に進んだ団体はまだ曲の練習を続けるわけなのでより良い演奏になるように、と具体例を多く指摘してみましたが、果たしてどこまで伝えられたのか。直接レッスンする機会でもあればいいけれど、伝えっぱなしの場合にどこまで適切に伝えうるか。今後の僕の課題です。因みに、岐阜県の場合は合評会という形で伝えましたが、県によっては講評用紙にコメントを書き入れて渡す方式をとっているところもあるそうです。どちらの方式にも一長一短あるのでしょうが、審査された方からすると、審査員の審査姿勢を伺い知る機会にもなるだろうし、次の活動の糧に出来る場合もあるだろうし、なにがしかのコメントがある事はいい事なんでしょう。・・・以上が審査にあたって感じ/考えた事。しかし、これだけでは終わりません。なんと初審査員だったにも拘らず、この日はコンクールの全体講評を任される事になってしまいました。他の4人の審査員のみなさんはそれぞれに経験豊かな先輩だったので、僕みたいなペーペーが話す場面では無いと思ったんですが、断りきれずにズルズルと・・・。全ての演奏が終わって一刻も早く審査結果を知りたい!と思っている人が渦巻いている会場で話すのって難しいです。その日全体の課題として感じた「コミュニケーションとしてのからだ」の事を話させてもらったけれど、話が抽象的になってしまった。一番伝えたかった中高生に伝えきれなかったような気がして心残り。なのでここで補足しておきます。作曲家が楽譜を書く時には、多くの場合は何らかの表現なり意図なり、伝えたい事があって、その一つの手段として楽譜に書き、伝えようとするものだと思います。けれど、自分の耳や体の中にたしかに存在した具体的な音のイメージ(それは高さ、大きさ、長さ以外にも色、重さ、距離、温度、といった様々な要素をともなった現実的な一つの存在であると思う)は、楽譜に書く段階で「音の高さ、大きさ、長さ」という要素だけに絞られてしまう。espressivoとかdolceとか書いてなんとか視覚的に残せるものは残したいと思うけれども、それはやはり、最初にイメージされた音と同じではないのです。となると、演奏者の方では、書かれた音符以外に「抜け落ちてしまったはずの情報」を補って再現していかないといけないし、その補完の具合が充実していればいるほど、いわゆる「名演奏」に近づくというのが一般的なのではないかと思います。(中には作曲者のイメージを越えた名演奏、全く違う再現だけど面白い演奏というのもあるけれど、いまは検討から外しましょう)ではどうやって抜け落ちた情報を補えば良いのかというと、何よりも音楽的な経験や勘が働くかどうか、という事が大切になってくるでしょう。その音楽的な経験や勘はどこに結びついてくるかと言うと、人間としての根源的な生活体験に直結しているのではないかと、最近僕は考えています。頭の中にある知識や感情は人それぞれ違うかも知れない、身の回りにある電化製品も人によって様々。けれど、リンゴが重力で下に落ちる、葉っぱが風を受けながらゆらゆら落ちる、波が押し寄せてからゆったりと、泡を残しながら引く、太陽がゆっくり沈んで夜の帳がすっとそばまで忍び寄る、といった経験は、どの人にも共通している事で、ブラームスだってパレストリーナだって大伴家持だって共通していたはずです。(もう少し上手いたとえが出来ないかなぁ。)人間全てに共通する経験ならば、それを活かした表現というのは全ての人に共感して貰い得る要素にはならないだろうか。多くの人に伝わるならば、それだけ演奏を受け入れてもらえる素地に近づかないだろうか。直線的な表現が(多くの場合は)拙く思えて、曲線的な表現が(多くの場合)より豊かな表現に感じられるのは人工/自然の問題とは関係あるのではないだろうか?自然発生的に人と交わす会話は、拙い演奏よりずっとずっと表現力に満ち満ちていていると、僕は思います。その言葉/動きの背景にはその人本人の存在と不即不離の裏付けがあるから。優れた音楽ならば、そうした会話よりも雄弁に、しかも言語では成し得ない領域の表現を掬い上げるものでしょう。が、現実問題として、日常生活する中で行っている表現ほど雄弁に音楽の中で「語る」事はとても難しい。・・・ここから先は整理しきれていないのでメモ書きに変わりますが、例えばひとくちに5kg。と言っても、鉄アレイ5kgと綿菓子5kgだと、手に持った時の実感が違うでしょう。5kgの人間の赤ちゃんと、5kgの猫と、5kgのヘビだったら、どれもダッコするときの手つきが違うのでは?それを、多くの人は今までの経験から推測出来る。ヘビを持った事が無い人でも、嫌いな人ならビクビクやっとの思いで触るだろうとか、なんらかの想像ができる。同様に楽譜にfと書いてあったなら、それを多様に解釈出来ないだろうか。小声をマイクで拾ったf、1000人で抗議の声を上げるf、一人で山で叫ぶf、サプライズプレゼントの喜びに、思わず声を失った「!」というf。pなら、今にも死にそうな消え入るp、緊張感みなぎった忍び足のp、はるか遠くでお祭りのどんちゃん騒ぎをやっているp。それらをたくさん(極端に)実験しながら組み立てて行く事で、「絶対これが正解!」と思えるような表現に出会えないだろうか。音楽経験豊かな人ならば、音符の組み立ての中から想像する事も可能だけど、そうでない人/団体であっても、fの出し方をあれこれ50種類くらい試してみたら、その中に「これが一番いい!」と直感出来る表現が見つかるのではないだろうか。一部分でそれが決定したら、それを前後の部分とつなげて演奏してみた上でもう一度検討する。それを繰り返して行く事によって、楽曲全体と団体とがうまくツボにハマって合致するポイントがあるのではないだろうか。それを「歌う事」、そして「聴かせる事」両面で実現出来ると、実力が変わらなくても音楽的説得力が圧倒的に増えるのではないか。そんな気がする。特に合唱という、人間の集団そのままの表現が直接表出される媒体においてはそれが効果的なのではないだろうか。演奏している側も、聴いている側も、断然面白く音楽と生活を結びつける事ができると思う。そして最後に一冊の本を紹介。興味のある方は読んでみて下さい。表現として演奏を面白くする為にどうすれば良いか、という事を具体的に気づかせてくれる本だと思います。アマチュアはもちろん、音大学部生くらいまでは充分読む価値がある内容です。リンク先では今は品切れ中のようですが、楽器店等の在庫はまだ見つかると思います。「生きた音楽表現へのアプローチ—エネルギー思考に基づく演奏解釈法」保科 洋 (著)/音楽之友社(刊)1998年定価3990円