音楽史

元旦の夜は、ヒルデガルド・フォン・ビンゲンなぞを聴いて厳かな気分になってみたりしました。演奏も非常に高水準。ちゃんと分析してるわけじゃないけど、感覚的には迂闊にグレゴリアンを聴いているよりもずっと僕の好み。もともと音楽史に興味がないわけはないし、ルネサンスものなんかにはあまり距離を感じずに親しんでいたけど、1年くらい前からか、中世の音楽も含めて古楽全般への興味が自然に増してきています。とは言え、専門的な知識もなく下手の横好きで首を突っ込んでいるだけですが、今年はもうちょっと網羅的に聴いていきたいなぁ。なんて思っていたところに、ずっと以前に買ったままだった青土社の現代思想臨時増刊「もう一つの音楽史」(1990年12月)が目に入った。ホントに偶然。#今検索してみたら日本の古本屋さんで古本を発見。たしか古本市でたまたま見つけて、近藤譲さんが対談しているというだけで買ってみたんだけど、当時は古楽方面の知識があまりに疎く、読んでみてもワケのわからない話だらけだった。でも、今読み直してみるとだいぶ面白いじゃないですか。青土社の関連のものっていつも編集眼に感心するけど、この本にしてもそう。1990年と言えば、日本ではまだ古楽の認識も浅くて、オーセンティックな演奏なんてまだまだ珍奇に扱われてた時代なんじゃないのかなぁ?そういう時代に、この分野の事をちゃんと先見性を持って語れる人材を見つけ出して、適切なテーマを与えて仕事させてるわけだし、これが音楽だけに及ばず、テーマごとに毎回膨大な勉強をしつつ本作りしてるんだろうし、明確な売れ線の本なんて全然出してなさそうだし、つまりは社員数だってそんなに多くないんだろうにこういうハイクオリティ本を多量に出している青土社に対しては怪物集団みたいなイメージがあります。現にこの「もう一つの音楽史」だって上尾信也さんとか井上さつきさんとか、その後名前が出て行く人材を登場させてるんだから、やっぱり嗅覚はすごいようだ。そんなわけで再読か初読か記憶の曖昧なものを読み返してますが、ホグウッドのインタビューとか、先に書いた近藤譲+庄野進+大崎滋生対談とか、皆川達夫インタビュー、金澤正剛ほかの対談とか、渡邉順生エッセイとか、18世紀ヨーロッパ各地のオーケストラ編成表とか、1990年時点での膨大な古楽CD紹介とか(いま入手できるものがどれくらい残っているんだろう・・・。)、他では読めなそうな貴重な情報がたくさん載っています。今は古楽研究の状況自体は変わっているだろうけど、この世界に態度、あるいは信念のようなものが随所に渦巻いている本です。装丁は菊地信義さん。圧倒的な分量なので、ちまちま読み進めます。

たまたま見かけて、安さに釣られて買ってしまった10枚組のクラシックDVD。DVD1枚が200円の時代になりましたよ。奥さん。クレジットを見ても、ちょっと怪しげな名前ばかりですが、コチシュのモーツァルトとベートーヴェンが見れれば最悪でもモトは取れるかと思って手を出してみました。時間がないから全部の視聴は出来ていないけど、コチシュはとても素晴らしい内容だった。これはポイントが殆どぶれない、正当派の映像。それから伏兵的に良かったのがコンソート・オブ・ミュージックによるラッソと、ヒリヤード・アンサンブルによるオケゲム。どちらも変な演出が入っていて映像としてはビミョ〜な空気が漂うけど、演奏は高水準。コンソート・オブ・ミュージックってエマ・カ—クビーが所属していたんだね。メンバーまで気にしていなかったので、演奏後のクレジットで初めてわかりました。顔を見ても今の顔と違うという事は、いつの録画なんだろう(笑)エマ・カークビーといえば、古楽方面での活動が有名ですが、ホグウッドと録音しているストラヴィンスキーのCDがあって、こちらもなかなか素敵。ストラヴィンスキーと言っても新古典の曲だから、あまり志向が異なるわけじゃないけどね。

全音から出ているシューベルト歌曲集を買ってみたら編集:田中伸枝となっていた。知らない名前だったので気にも留めなかったけど、この田中伸枝さんによる解説が予想以上に素晴らしかった。たいていこの種の解説って、今読むと鼻白むような時代がかった内容だったりするので、新鮮な驚き。初版は1964年の本なので、もう40年も前に活躍した人ですね。曰く「リートでは詩が音楽と共に大切な役目を持っていますが演奏となるとまず音楽の表現に専念するように心がけましょう。といって詩を軽んずる意味ではなくリートに於いての詩情は音楽を通じて現れてくるからです。 詩を解し、言葉の一々を知る事は大切な事です。これはリートの場合、音楽をより深く追求する手段として考える方が当然でしょう。自らの詩の解釈をもって名曲を左右しない、つまりシューベルトの音楽を損じないようにしたいものです。ところが詩やドイツ語の一々を知るに従って詩の気分や言葉に捉われてしまって肝心な音楽の表現に妥当を欠いている場合がよくあるものです。例を『魔王』にとって見ましょう。・・・」という感じ。このあとには魔王を例にとって、具体的な対処法をわかりやすく解説しています。「詩の方に捉われてその方から音楽の表現を強めようとするつもりであっても、結局シューベルトの音楽を音楽以外の要素でもって補うという冒険をする事になりますから余程注意せねばならない事です」ともある。まさに我が意を得たり!という感じ。声楽ジャンルに根強い、過剰なtext幻想とのギャップには常に違和感を感じていましたが、その違和感を明快に文章化してくれています。40年前って、まだまだドイツ中心の音楽史観で、クラシックが「教養」だった時代だろうけど、それでもこういう見識に辿り着けた人はやっぱりいたんだね。でも、田中伸枝さんの事を調べてみても曲集の解説は全音のシューベルト2冊しか担当していないみたい。出版当初から評判が良かったらもっと他の曲集にも書いていそうなんだけどなぁ。時代と合わなかったんだろうか。因みに、現在も活躍中のヴァイオリニスト田中千香士さんは田中伸枝さんの息子さんでした。そして、千香士さんの姉が、伝説ともなっているピアニストの田中希代子だったんですね。すごい家族です。

音楽之友社から2006年のはじめに出ていたブルグミュラーの25の練習曲のNew Editionを入手。ピアノを習っていた方々にはよくお馴染みの曲集。そうでない人も例えば2曲目のアラベスクあたりはどこかで耳にした事があるのでは?僕も当然この曲は知っていて、既存版も持っているんだけど、春畑セロリさんの解説が素晴らしかったので勉強の為に買いました。先生向けと子供向けに軽く読めるタッチの文章でそれぞれの曲を紹介しているんですが、その中身が、実に本質的なんです。先生がこの本質部分をわかっていて、この本を使いながら25曲やり終えた頃には、きっと生徒(と、その生徒の聴衆)はかなり自由に音楽を楽しめるようになるだろうな、という気がします。もちろんブルグミュラーを終えた位では、技術的にはピアニストを目指せようはずもないです。でも、ブルグミュラーを弾ける位になれば、かなり自分で弾いて楽しめる音楽の選択肢はあるはず。なのに自分で考えられない・語れないが為に演奏の自由を手にできていない層の人たちに、大きな福音となるような本と見受けました。参考に、生徒のための前書きから引用:____この曲の、いちばん盛り上がるところは、どこ?どこで、もうすぐ終わるなって感じる?すごく上手だったら、どのくらいの速さで弾きたい?急に感じが変わったな、って思うところある?なぜ?____などの項目をたくさん挙げたあとで、____ おともだちと答えがちがってしまっても気にしない。きのうと答えがちがってしまっても気にしない。いま、あなたが感じたことを大切にしてくださいね。____と続きます。もちろん、他の部分では具体的に音の作用の根拠を問いながら解説が進むので「無茶苦茶」が「自由」ではない事は自然と感得できる仕組み。それにしてもピアノの教則本はやっぱり部数が出るんだなぁ。48ページあって、楽譜としては異例なくらいにページに装飾をあしらって、それで600円。

「お耳ざわりですか -あるある伴奏者の回想 」に続いて「伴奏者の発言」を読了。前者よりも後者の方が実質的/技術的な部分に凝縮されている感じ。前者は当時の状況や、演奏家の素顔が見えてくる楽しさはあるけれど、後者にはそれがなくてその分、具体的なアドヴァイスがたくさんある。前者では幾分くどくも感じられた英国流?のジョークや皮肉が、後者では随分減っているのでその読みやすさも手伝っている。どちらの本もヘルムート・ドイチュさんの「伴奏の芸術」と併せて読んでおくと良い本だと思います。ピアニストは勿論として、声楽家や他の楽器奏者にとってはリハーサル時のピアニストに対するコミニュケーションを効率よくする効果があるんじゃないかな。またムーアの2冊は、音楽愛好家にとっても、「うまい伴奏」を出来る人とそうでない人の違いがどこにあるか聴き分け、また上手い人の上手い秘密をより深く味わうための良い指標となりそう。その点でドイチュさんのは内容が専門的に特化しているかもしれない。こうやって本を読むと当然のように聴きたくなるムーアさんの演奏。彼の場合ははっきりとコンサートキャリアを区切ったので「引退コンサート」のCDが出ています。http://www.hmv.co.jp/Product/detail.asp?sku=2204522枚組の前半がそのコンサート(Homage to Gerald Moore)。後半がスタジオ録音によるアンソロジー(Tribute to Gerald Moore)。ただし前半のコンサートの中にもうまくスタジオ録音を混ぜてあります。一聴するだけだと、本を読んで期待が高まっていた分(そして僕が最近の演奏水準により親しんでいる分)、残念な気持ちが芽生えます。でも、聴き慣れてくるとこういう演奏スタイルの良さが見えてくる。たしかにムーアは上手い。今日的な演奏傾向からすると主張が足りないきらいもあるけど、骨格として押さえるところは押さえてあるし、表情も豊か。ヘビーローテーションにはならないかもしれないけれど、時々聴いて自分の座標軸を確認したくなるようなCD。

イギリスのアマゾンで偶然発見して注文していた、大好きな映像作家The Brothers Quayの作品を多数収めたDVDが届きました。送料を考えてもこの種のアートアニメとしては充分に安かった。場面場面が喚起するイメージの雄弁さが圧倒的で、創造力の豊かさと強靭さに敬服します。国内盤はもとより海外盤も廃盤状態が長く続いていたので、今回の入手は嬉しい。こういう↓色合いを見てピンと来る人にとっては刺激的な作家だと思います。http://www.dvdbeaver.com/film2/DVDreviews26/Quay_bros_short_films.htm「ストーリがはっきりしていないと受け付けない」人にはオススメできません。現代音楽の面から言えば、2000年のIn Absentiaのための音楽をシュトックハウゼンが書き下ろしているのが話題でしょうか。この作品に限らず、クエイ作品はどれも音楽が印象的に/効果的に使われています。#画像方式がPALなので、日本国内の一般的なテレビでは見る事ができません。変換機能のある環境か、パソコンのDVDで見る必要があります。

弦楽器の音楽雑誌「サラサーテ」2006年冬号を入手。表紙に「別冊 航空情報」とワケのわからない表記があったので調べてみたら、サラサーテは雑誌「航空情報」が出している別冊ムック本という位置づけのようです。http://www.fujisan.co.jp/pub/2751/音楽好きの航空業界関係者が発案した雑誌なのか??奏者向けの「サラサーテ」を日頃から愛読しているわけではなくて、今回の付録に宮沢賢治作詞作曲/林光編曲の「星めぐりの歌」のチェロ版編曲が収められていたから買ってみたのです。林光さんには混声合唱版の実に素敵な編曲があるので、そのメロディ置き換えただけの版かと思って買ってみたら、チェロ版は少し新しい要素も加えた新編曲でした。シンプルながら効果的なピアノパートが印象的な、賢治の曲に新しい生命力を与える編曲です。チェロの残響豊かなピチカートも活かされています。

古本で入手したジェラルド・ムーアの「お耳ざわりですか」読了。今では「アンサンブル・ピアニスト」という呼称も確立されつつあるけれど、ムーアの活躍した時代は未だ「伴奏者」が「ソリスト」よりも一段も二段も低く扱われていた時代。書名はマトモな音量で伴奏すると「ソリストを聴きたいのにピアノが五月蝿い」と言われた風潮に由来している。基本的にはこの問題と格闘してきたムーアの不平不満がつらつらと書かれているのだけど(笑)、共演者の名歌手・名奏者の人と音楽性が見えるような回想部分は、古い録音を聴き直してみたくなる。エリザーベト・シューマンとか、先日亡くなったシュヴァルツコップとかがとりわけチャーミングに描かれているなあ。ディースカウの卓越した音楽性・人間性にも改めて心惹かれる。「時代の記録」を越えて音楽的に面白いのは26章「私の仕事」。他人にとっては初見で演奏できる程度の曲であるシューベルトの「さすらい人の夜の歌(旅人の夜の歌)」の、非常にシンプルな音をどうやって練習して一つ一つの音の理想的なポジションを定位していくのかを細かく記述。人によっては、たった1ページの曲に対してここまでこだわるんだ!という驚きを感じるだろうし、「そうそう、そこまでやらないといい演奏にならないよね」と感じる人もいるだろう。いずれにしてもこの本の276・277ページは宝のような2ページ。こういう本を読むと、ジェラルド・ムーアその人についても改めて感心を持つわけですが、ステージ引退の公演ライブ録音が出ているようです。最後にステージで弾いたのは、ムーア自身の編曲によるシューベルトの「音楽に寄す」ピアノソロ版。http://www.hmv.co.jp/product/detail.asp?sku=220452「伴奏」に心血を注いできたピアニストの最後のステージ演奏が、最初で最後のソロ演奏だなんて、なんて素敵なエピソードなんだろう。

CDを検索していて見つけた、サンフランシスコ響の特設サイトが面白かった。指揮者のマイケル・ティルソン・トーマスがわかりやすく春の祭典を紹介している。[A Riotous Premiere]ではハルサイ誕生にまつわるエピソード紹介。[Explore The Score]の方では、ハルサイの楽譜を見せると同時に音を聴かせて、(おおまかに)音に同期したバーが動いて、耳と目でハルサイが見える仕組み。全曲ではなくてハイライトだけど、第2部の最後が終わったあとには、演奏に合わせて指揮してみよう!のコーナーもついてます。(「演奏」に合わせる「指揮」は大きな矛盾を孕んでいるけど、まぁお遊びだしね)まさか2部の最後の変拍子部分を一般ユーザーに挑ませるつもりか?と思ったらそんな事はなくて、単純な2拍子と3拍子部分だけ。だけど3拍子の方(第1部の最後)はテンポが速いので、マウスで操作するとなかなか難しい。僕は満点取れませんでした。(もしかして、好成績だと変拍子にもチャレンジできるのかな?)サンフランシスコ響は、この方面への活動を積極的に広げているみたい。ちょうどバーンスタインとニューヨークフィルみたいな関係でしょうか。春の祭典以外では、ベートーヴェンの英雄コープランド全般チャイコフスキー第4交響曲が紹介されていました。

昨日、映画の日を狙って久しぶりに映画を見てきました。見たのはイングマール・ベルイマンの「サラバンド」。どこかの評論家の紹介記事で「バッハの無伴奏チェロ組曲のサラバンドを軸に繰り広げられる愛憎の人間模様」なんて紹介されていたので、てっきりチェリストを目指している娘が人間としても成長しながら音楽的にも豊かになって、やがて周囲の人間関係にも雪解けの時が!・・・なんていう感じの音楽映画かと思って足を運んだのに音楽シーンが殆どないじゃん!音楽のレッスンの場面もあるんだけど、実際に弾き始めるには至らず人生相談。その後でちょっとだけ、娘さんがバッハの無伴奏チェロ組曲5番からサラバンドを弾くけど、ホンのさわりだけ。他には作中で一番の憎まれ役たる親父さんがオルガンを弾いている場面が少しあったくらいかな。劇中での演奏シーンは限られているけど、BGMとしては件のサラバンドをはじめとして、ふんだんにバッハが流れてきます。状況設定もかなりマニアックにクラシックです(アバド率いるグスタフ・マーラー青少年管弦楽団のオーディションがどーのこーのという話まで出てくる)。だけど、映画の主題にはバッハのサラバンドは絡んでいない。状況設定の一つとして音楽が使われているだけ。映画評論家はしっかりと中身見てから文章書けーー!!!とは言うものの、チェロを弾く場面とか、音楽家として成長して行く過程を求めずに見ればこの「サラバンド」はいい映画です。救いが見えそうになるのに奈落に落ちて終わるのも、これぞ北欧映画!という感じ。フレームを切り替えずに、じっくりと長回しの対話を見せる/聞かせるのも、人間の内奥をいやでも見つめさせられるようで良い。関係ない第三者でも説教されてる気分になるというか、ずんと胸に沈み込ませる効果がありますね。見てる方も時間が持続しますから。いやでも家族についていろいろ考えさせる映画なので、未婚者→既婚者→子持ち→離婚者→再婚者→確執保持者といった順で受け止め方がヘヴィーになっていくと思われます。僕の場合(※第二段階)は、とにかくを妻を大切にしておこうと心に誓い直したのでした。年を取ったらまた見てみたい映画です。この映画の前編「ある結婚の風景」は32年前にスウェーデンの離婚率を増加させるほどの社会現象を巻き起こした作品だったとか。同じ監督が、同じ役者でこれだけの年月を経てその後のストーリーを描けるのって珍しいんだろうなぁ。こちらの方は未見なので、どこかで見つけて見てみたいです。映画館では「ある結婚の風景」も見たであろう白髪の夫妻をたくさん見かけました。30年越しで作品を追うのも素敵ですね。

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